花見の後のまつり
テーマ:よもやま話
2012/04/14 09:18
昨日は6時15分前に起床して、紋付羽織袴に着替えまして八幡宮へ御幣迎えに。いよいよ曳山祭本番です。東京で働く祭り好きの娘が休暇をとって昨日帰省してまいりましたので、せっかくだから昼飯でも食いに行こうと妻と3人で「つつ味」へ。ドリンク付きで1000円のランチはとてもお値打ち。
その後、これまたせっかくなのでと豊公園へ花見に。うろうろと30分ほど歩き回りましたが、まだ満開とはまいりません。やはり曳山祭本日と重なる日曜日あたりが最高の見頃でしょうか。
セブンイレブンに立ち寄った後、家に戻るべく長浜駅北側のアンダーをくぐり、左折して駅前通りを少し行ったところでお巡りさんが赤いチカチカ棒(あれ何ていうの?)を持って、こっちへ入れと交番前に誘導しておられるではないですか。
「えっ!何?何が起こったの?」。さっぱり様子がわからんかったんですが、言われるとおりに車を交番前につけます。窓を開けますと「あのぉ、春の交通安全週間やって知ってやありますか?」。あぁ、そう言えば今朝マルセンちゃんが書いてたなぁと思い出して、「はぁ、知らなかったけど知ってるような...」
「ご主人はいいんですけどねぇ、助手席の奥さんがねえ」「あ、やっぱり」と妻。「シートベルトねぇ、助手席の方もしてもらわなあかんのですよぉ」。妻よ、気づいても後のまつりじゃ。若いお巡りさん、申し訳なさそうに免許証の提示を求め、書類に必要事項をどんどん記入していかれます。
「これで、ゴールドカードもパーですか」と率直に損得問題を尋ねる妻。「え~、これでね罰金とかはありませんし、減点1ですけど、3ヶ月無事故無違反だと自動的に消えますからね、気をつけて下さいね。」とお巡りさん。
私自身は、シートベルトを締める癖がついてしまっているので、むしろ装着しないと胸元が不安で気持ち悪いんですが、妻は助手席に座る時はついつい忘れてしまうみたいで。まあ、これくらいで済んだので良しとせねばあかんでしょ。皆さんもネズミ取りいや交通安全には十分お気をつけ下さいませ。
その後、これまたせっかくなのでと豊公園へ花見に。うろうろと30分ほど歩き回りましたが、まだ満開とはまいりません。やはり曳山祭本日と重なる日曜日あたりが最高の見頃でしょうか。
セブンイレブンに立ち寄った後、家に戻るべく長浜駅北側のアンダーをくぐり、左折して駅前通りを少し行ったところでお巡りさんが赤いチカチカ棒(あれ何ていうの?)を持って、こっちへ入れと交番前に誘導しておられるではないですか。
「えっ!何?何が起こったの?」。さっぱり様子がわからんかったんですが、言われるとおりに車を交番前につけます。窓を開けますと「あのぉ、春の交通安全週間やって知ってやありますか?」。あぁ、そう言えば今朝マルセンちゃんが書いてたなぁと思い出して、「はぁ、知らなかったけど知ってるような...」
「ご主人はいいんですけどねぇ、助手席の奥さんがねえ」「あ、やっぱり」と妻。「シートベルトねぇ、助手席の方もしてもらわなあかんのですよぉ」。妻よ、気づいても後のまつりじゃ。若いお巡りさん、申し訳なさそうに免許証の提示を求め、書類に必要事項をどんどん記入していかれます。
「これで、ゴールドカードもパーですか」と率直に損得問題を尋ねる妻。「え~、これでね罰金とかはありませんし、減点1ですけど、3ヶ月無事故無違反だと自動的に消えますからね、気をつけて下さいね。」とお巡りさん。
私自身は、シートベルトを締める癖がついてしまっているので、むしろ装着しないと胸元が不安で気持ち悪いんですが、妻は助手席に座る時はついつい忘れてしまうみたいで。まあ、これくらいで済んだので良しとせねばあかんでしょ。皆さんもネズミ取りいや交通安全には十分お気をつけ下さいませ。
studioこほく
テーマ:まちづくり
2012/04/13 09:16
裸参りの初日、すなわち9日の日に曳山博物館広場の前あたりでメイさんとたまたまお会いしましたら、いきなりチラシのようなものを渡されまして、「今度こんなんするんやけど、ぜひ来て~」と。
メイさんご自身もブログでアップしておられましたし、中日新聞でも取り上げられておりましたので、ご存知の方も多いと思いますが、ネットで湖北の魅力を紹介する「studioこほく」という企画が立ち上がりまして、その第1回放映が一昨日行なわれたのです。
第1回のテーマは「長浜曳山祭~舞台ウラ」。何が行なわれるんか、も一つ理解できんかったんですが、他ならぬメイさんの依頼、しかもゲストスピーカーが我が伊部町で旅館を経営する三谷さんということで、裸参り見物を済ませて、その場でお会いした西川総当番副委員長もお誘いして現場のみーな編集室へ。
既に番組は始まっておりまして、曳山祭の稽古のビデオを「ユーストリーム」に流した後、それに関して司会の板山さんが三谷さんに色々と質問をされているところでした。メイさんが大振りに手招きして「どうぞ、どうぞ、入ってぇ~」とジェスチャーされますので、遠慮なく。
映像は稽古の他、先日の曳山博物館の展示曳山交替式、裸参りなど板山さんが事前に撮られたビデオ動画をユーストリームの視聴者に見せて、それぞれに関して三谷さんが冗談を交えながら解説。面白いのは視聴者からリアルタイムで感想や質問が送られて来て、画面に文字で出るんですね。いわゆる双方向番組ですか。
「三谷さん、格好いい~」とか、「女役はどうやって選ばれるんですか」とか。東京に住む三谷さんの弟からも「◯◯です、頑張って」みたいなメッセージも届いたり。お父さんが親戚中にFAXで連絡されたのだとか。我々ギャラリーも三谷さんの珍回答に笑ったり、冷やかしたり。
そのうち、「AJさんもいらっしゃるんですか?」なんて質問が来まして、「AJって誰や?」。そんなん油甚しかありませんやん。で、急遽ギャラリー側にもカメラが回り自己紹介するハメに。途中から小右衛門ちゃんも来たよ。やいのやいの言いながら小一時間盛り上がって、最後にスタッフも入って全員で記念撮影。
いや~、これはなかなか面白い企画。テレビほど大げさでないし、曳山祭をよく知っている視聴者が自ら解説のコメントを入れてくれたりもして、まさに製作者と視聴者が一体になった不思議な感じ。毎週水曜日に放映されるようで、次回の特集番組は25日(水)に「余呉の春」だったかな。そのうち皆様も出演の機会があるかもよ。
メイさんご自身もブログでアップしておられましたし、中日新聞でも取り上げられておりましたので、ご存知の方も多いと思いますが、ネットで湖北の魅力を紹介する「studioこほく」という企画が立ち上がりまして、その第1回放映が一昨日行なわれたのです。
第1回のテーマは「長浜曳山祭~舞台ウラ」。何が行なわれるんか、も一つ理解できんかったんですが、他ならぬメイさんの依頼、しかもゲストスピーカーが我が伊部町で旅館を経営する三谷さんということで、裸参り見物を済ませて、その場でお会いした西川総当番副委員長もお誘いして現場のみーな編集室へ。
既に番組は始まっておりまして、曳山祭の稽古のビデオを「ユーストリーム」に流した後、それに関して司会の板山さんが三谷さんに色々と質問をされているところでした。メイさんが大振りに手招きして「どうぞ、どうぞ、入ってぇ~」とジェスチャーされますので、遠慮なく。
映像は稽古の他、先日の曳山博物館の展示曳山交替式、裸参りなど板山さんが事前に撮られたビデオ動画をユーストリームの視聴者に見せて、それぞれに関して三谷さんが冗談を交えながら解説。面白いのは視聴者からリアルタイムで感想や質問が送られて来て、画面に文字で出るんですね。いわゆる双方向番組ですか。
「三谷さん、格好いい~」とか、「女役はどうやって選ばれるんですか」とか。東京に住む三谷さんの弟からも「◯◯です、頑張って」みたいなメッセージも届いたり。お父さんが親戚中にFAXで連絡されたのだとか。我々ギャラリーも三谷さんの珍回答に笑ったり、冷やかしたり。
そのうち、「AJさんもいらっしゃるんですか?」なんて質問が来まして、「AJって誰や?」。そんなん油甚しかありませんやん。で、急遽ギャラリー側にもカメラが回り自己紹介するハメに。途中から小右衛門ちゃんも来たよ。やいのやいの言いながら小一時間盛り上がって、最後にスタッフも入って全員で記念撮影。
いや~、これはなかなか面白い企画。テレビほど大げさでないし、曳山祭をよく知っている視聴者が自ら解説のコメントを入れてくれたりもして、まさに製作者と視聴者が一体になった不思議な感じ。毎週水曜日に放映されるようで、次回の特集番組は25日(水)に「余呉の春」だったかな。そのうち皆様も出演の機会があるかもよ。
花眼
テーマ:よもやま話
2012/04/12 09:02
今年は春の訪れが遅いというか何というか寒かったのですが、ようやく暖かくなってまいりました。桜の開花はちょうど曳山祭と重なりそうな気配ですね。
日本では「花」と一語で言った場合、これは通常「桜」のことを指しますが、中国には「花眼(ホァイエン)」という言葉があるらしい。さて、何という意味でしょうか?パンジーのように顔のように見える花には眼の部分もあるかもしれませんね。
そうではなくて、「花眼」というのは中国語で「老眼」のことらしい。満開の桜を見る時のようにぼんやりと見えるような雰囲気が出ていて、とてもいい表現だと思います。
玄侑宗久氏によれば、「花がよく見える眼」つまり、細部をじっと見るのではなく花の全体性を味わえるような眼を指し、また歌人の道浦母都子さんは、「人が老いて、すべてがほんのり美しく見えはじめる眼」(『花眼の記』)と表現しているそうです。
私は30代までは視力が異常に良く、すぐに老眼になるだろうと思っていたのですが、40代から視力が落ち始め今はむしろ近眼。従って幸か不幸かまだ近くが見えないという老眼の症状は出てきておりません。
いずれにせよ、若い時に見えたものが見えなくなるのは不便ではありますが、むしろ見たくないものをはっきり見る必要がないことは、それはそれで有難いことなのかもしれない、と思うようになってきました。人混みを中を歩いてもぼんやりとしか見えなければ目も疲れません。
老眼というと何か年寄り臭くってがっかりしますけど、「花眼」であれば何となく受け入れてもいいような気がしてまいります。老眼鏡も「花眼鏡」とか「花めがね」とでも言いますか。でも「鼻眼鏡」のイメージが強すぎてダメか。
日本では「花」と一語で言った場合、これは通常「桜」のことを指しますが、中国には「花眼(ホァイエン)」という言葉があるらしい。さて、何という意味でしょうか?パンジーのように顔のように見える花には眼の部分もあるかもしれませんね。
そうではなくて、「花眼」というのは中国語で「老眼」のことらしい。満開の桜を見る時のようにぼんやりと見えるような雰囲気が出ていて、とてもいい表現だと思います。
玄侑宗久氏によれば、「花がよく見える眼」つまり、細部をじっと見るのではなく花の全体性を味わえるような眼を指し、また歌人の道浦母都子さんは、「人が老いて、すべてがほんのり美しく見えはじめる眼」(『花眼の記』)と表現しているそうです。
私は30代までは視力が異常に良く、すぐに老眼になるだろうと思っていたのですが、40代から視力が落ち始め今はむしろ近眼。従って幸か不幸かまだ近くが見えないという老眼の症状は出てきておりません。
いずれにせよ、若い時に見えたものが見えなくなるのは不便ではありますが、むしろ見たくないものをはっきり見る必要がないことは、それはそれで有難いことなのかもしれない、と思うようになってきました。人混みを中を歩いてもぼんやりとしか見えなければ目も疲れません。
老眼というと何か年寄り臭くってがっかりしますけど、「花眼」であれば何となく受け入れてもいいような気がしてまいります。老眼鏡も「花眼鏡」とか「花めがね」とでも言いますか。でも「鼻眼鏡」のイメージが強すぎてダメか。
慈悲心
テーマ:まちづくり
2012/04/11 09:22
昨日長浜市の「平成24年度教育行政説明校園長会」が開催されました。今年は教育長が交代されたこともあり、校園長先生方の注目は「教育長が何を語られるか」にあったのではないのでしょうか。
長浜市は「つながりあい、学びあい、豊かに生きる人づくりをめざす『ながはま』」を教育基本方針として、その下に6つの基本目標を掲げております。
北川教育長は、この6つの目標について1番目の項目から説明を始められたのですが、時間の都合で、いやおそらく最初から意図的であったろうと推測するのですが、基本目標2に関するご自身の考えを述べられることにほとんどの時間を費やし、校園長先生方に静かに、しかに熱く語りかけられました。
基本目標2とは「こどもの自立に向けて『生きる力』を育む教育を推進します」というものですが、教育長は「生きる力」というのは極めてあいまいな言葉だが、それを育むのは「学科教育」と「道徳教育」だと考える、と。
学校はまず「学びの場」「習いの場」であり、いわゆる「読み書きそろばん」である基礎、基本を徹底したい。文部省は小学校で放射能を、原子力を教えなさいと指導するけれど、小学生にそんなもの理解できますか?と疑問を呈し、将来そういう問題にぶち当たった時に対処できるための力はまず基礎、基本からの学科教育だと。
そして、道徳教育に関しては、それを行なう「目標」を明確にすることが重要であると仰いました。この目標はおそらく個々人で違う言葉になるかもしれないが、教育長は「個人的には、それは『慈悲心』であると思う」と。
作家の津本陽氏の言葉を引用されたのですが、「慈悲」の「慈」とは「草がぼうぼうとおいしげった様を表し、そこから皆いっしょにという意味。そして「悲」は「人が背中を背け合うようなつらい状態」。だから「慈悲心」とは「苦しみを共にする心」だというわけです。
「慈」も「悲」もともに「いつくしむ心」だと単純に考えていたのですが、確かに同じような意味の「慈善」と比べて「慈悲」は数段崇高な感じがいたします。「慈善」は「恵まれたものが恵まれないものに施す」ような上から目線というか「善行を共にして満足する」というにおいが私にはどうしてもぬぐえません。
大震災の被災者、あるいは社会的弱者と「苦しみを共にできる心」を持てる人はどれほどいるのか。自分自身も含めて深く反省したいところです。
長浜市は「つながりあい、学びあい、豊かに生きる人づくりをめざす『ながはま』」を教育基本方針として、その下に6つの基本目標を掲げております。
北川教育長は、この6つの目標について1番目の項目から説明を始められたのですが、時間の都合で、いやおそらく最初から意図的であったろうと推測するのですが、基本目標2に関するご自身の考えを述べられることにほとんどの時間を費やし、校園長先生方に静かに、しかに熱く語りかけられました。
基本目標2とは「こどもの自立に向けて『生きる力』を育む教育を推進します」というものですが、教育長は「生きる力」というのは極めてあいまいな言葉だが、それを育むのは「学科教育」と「道徳教育」だと考える、と。
学校はまず「学びの場」「習いの場」であり、いわゆる「読み書きそろばん」である基礎、基本を徹底したい。文部省は小学校で放射能を、原子力を教えなさいと指導するけれど、小学生にそんなもの理解できますか?と疑問を呈し、将来そういう問題にぶち当たった時に対処できるための力はまず基礎、基本からの学科教育だと。
そして、道徳教育に関しては、それを行なう「目標」を明確にすることが重要であると仰いました。この目標はおそらく個々人で違う言葉になるかもしれないが、教育長は「個人的には、それは『慈悲心』であると思う」と。
作家の津本陽氏の言葉を引用されたのですが、「慈悲」の「慈」とは「草がぼうぼうとおいしげった様を表し、そこから皆いっしょにという意味。そして「悲」は「人が背中を背け合うようなつらい状態」。だから「慈悲心」とは「苦しみを共にする心」だというわけです。
「慈」も「悲」もともに「いつくしむ心」だと単純に考えていたのですが、確かに同じような意味の「慈善」と比べて「慈悲」は数段崇高な感じがいたします。「慈善」は「恵まれたものが恵まれないものに施す」ような上から目線というか「善行を共にして満足する」というにおいが私にはどうしてもぬぐえません。
大震災の被災者、あるいは社会的弱者と「苦しみを共にできる心」を持てる人はどれほどいるのか。自分自身も含めて深く反省したいところです。
お釈迦になる
テーマ:言葉・漢字
2012/04/10 09:31
今月の日経新聞「私の履歴書」の執筆者は演出家の蜷川幸雄氏。特に氏に興味があるわけでもないのですが、意外と社交的でないというか、内向的な方のようで、人は見かけによらないなと思いながら読んでおります。
彼は「キューポラのある街」、埼玉県川口市の出身。川口市は鋳物の街であり、「キューポラ」とは、鋳物をつくるために鉄を溶かす溶銑炉のことだそうです。でね、「使い物にならなくなる」という意味で「お釈迦になる」っていう言葉使いますでしょ。これって、鋳物職人の隠語から生まれたんだそうですよ。
元々阿弥陀像を鋳るはずが、誤って釈迦像を鋳てしまったことから、というのが最も有力な説だそうですが、これだけでは面白くない。阿弥陀様がお釈迦様になっても、今じゃ違いがわからない人の方が多いかもしれませんしね。
鋳物は火が強すぎてもいけないそうですね。江戸の鋳物職人は「火が強かった」というのは「しがつよかった」と発音するようです。さて、マルセンちゃんが昨日書いていたように、4月8日はお釈迦様の誕生日なのですが、お釈迦様が世に出たのは「4月8日だった」=「しがつようかだった」→「しがつよかった」→「火が強かった」
そうなんです。お釈迦様の誕生日である4月8日との洒落だという説で、私は圧倒的にこちらが好きですね。博打などで無一文になる場合も「お釈迦になる」というそうですが、こちらは花祭りで水や甘茶をかけられるお釈迦様のように「裸にされる」ということから出た言葉だとか。
しかし、花まつりって何故か白い象が登場しますよね。あれ見たら、子どもならまず「鼻まつり」と間違えますよね、って私だけ?さらに、何で甘茶を掛けるのか?「釈迦の誕生時、産湯を使わせるために9つの竜が天から清浄の水を注いだとの伝説に由来する」とwikipediaには書かれています。
う~ん、あの甘茶はその後誰かが飲むのでしょうか。え?お釈迦になる?できればおしゃけになってほしいな。
彼は「キューポラのある街」、埼玉県川口市の出身。川口市は鋳物の街であり、「キューポラ」とは、鋳物をつくるために鉄を溶かす溶銑炉のことだそうです。でね、「使い物にならなくなる」という意味で「お釈迦になる」っていう言葉使いますでしょ。これって、鋳物職人の隠語から生まれたんだそうですよ。
元々阿弥陀像を鋳るはずが、誤って釈迦像を鋳てしまったことから、というのが最も有力な説だそうですが、これだけでは面白くない。阿弥陀様がお釈迦様になっても、今じゃ違いがわからない人の方が多いかもしれませんしね。
鋳物は火が強すぎてもいけないそうですね。江戸の鋳物職人は「火が強かった」というのは「しがつよかった」と発音するようです。さて、マルセンちゃんが昨日書いていたように、4月8日はお釈迦様の誕生日なのですが、お釈迦様が世に出たのは「4月8日だった」=「しがつようかだった」→「しがつよかった」→「火が強かった」
そうなんです。お釈迦様の誕生日である4月8日との洒落だという説で、私は圧倒的にこちらが好きですね。博打などで無一文になる場合も「お釈迦になる」というそうですが、こちらは花祭りで水や甘茶をかけられるお釈迦様のように「裸にされる」ということから出た言葉だとか。
しかし、花まつりって何故か白い象が登場しますよね。あれ見たら、子どもならまず「鼻まつり」と間違えますよね、って私だけ?さらに、何で甘茶を掛けるのか?「釈迦の誕生時、産湯を使わせるために9つの竜が天から清浄の水を注いだとの伝説に由来する」とwikipediaには書かれています。
う~ん、あの甘茶はその後誰かが飲むのでしょうか。え?お釈迦になる?できればおしゃけになってほしいな。