郷に入れ歯
テーマ:よもやま話
2012/04/24 09:17
「郷に入れば郷に従え」っていう格言がありますよね。ある時、郷ひろみがTVに出てるのを見てたら、ふと「郷に入れ歯、郷に白髪」って思いついたんですけど、あまり年を取らなさそうなこの俳優にもそういう時は来るのでしょうかね。
さて、一昨日の朝日新聞「仕事力」というコラムに作家の内田樹さんが「現実を涼しく受け入れよ」という題で寄稿されていました。そこに書かれていたのが「結婚も就職も、ある意味『入れ歯』と同じです」という言葉。以下次のように続きます。
「自分自身は少しも変わらず自分のままでいて、それにぴったり合う『理想の配偶者』や『理想の職業』との出会いを待ち望んでいる人は、たぶん永遠に『ぴったりくるもの』に出会うことができないでしょう。
『どんな相手と結婚しても、そこそこ幸福になれる人』は『理想の配偶者以外は受けつけられない人』よりもずっと市民的成熟度が高い。(中略)仕事だってそうです。『どんな職業に就いても、そこそこ能力を発揮できて、そこそこ楽しそうな人』こそが成熟した働き手であり、キャリア教育はその育成こそ目指すべき...」
確かに、「自分の能力を最大限活かせるような仕事を」とか言って目指しても、内田さんが言うように自分に能力があるかなんて実際に仕事してみないとわからないんだし、それが実現できる人は少数。皆が「そこそこ能力発揮できて楽しく」を目指した方が社会全体が気楽ではありますわな。
入れ歯は、本来の歯があった時の感覚が「自然」で、それと違う状態は全部「不自然」だという人は何度やっても合わない。それに対して「歯がなくなった」という現実を涼しく受け入れた人は、「入れ歯」という新しい状況にも自然に適応できる。と内田さんは言います。
なかなか現実を涼しく受け入れるのは難しいけど、早く入れ歯に慣れたもの勝ちのような気もするな。やっぱり「郷に入れ歯」ですな。
さて、一昨日の朝日新聞「仕事力」というコラムに作家の内田樹さんが「現実を涼しく受け入れよ」という題で寄稿されていました。そこに書かれていたのが「結婚も就職も、ある意味『入れ歯』と同じです」という言葉。以下次のように続きます。
「自分自身は少しも変わらず自分のままでいて、それにぴったり合う『理想の配偶者』や『理想の職業』との出会いを待ち望んでいる人は、たぶん永遠に『ぴったりくるもの』に出会うことができないでしょう。
『どんな相手と結婚しても、そこそこ幸福になれる人』は『理想の配偶者以外は受けつけられない人』よりもずっと市民的成熟度が高い。(中略)仕事だってそうです。『どんな職業に就いても、そこそこ能力を発揮できて、そこそこ楽しそうな人』こそが成熟した働き手であり、キャリア教育はその育成こそ目指すべき...」
確かに、「自分の能力を最大限活かせるような仕事を」とか言って目指しても、内田さんが言うように自分に能力があるかなんて実際に仕事してみないとわからないんだし、それが実現できる人は少数。皆が「そこそこ能力発揮できて楽しく」を目指した方が社会全体が気楽ではありますわな。
入れ歯は、本来の歯があった時の感覚が「自然」で、それと違う状態は全部「不自然」だという人は何度やっても合わない。それに対して「歯がなくなった」という現実を涼しく受け入れた人は、「入れ歯」という新しい状況にも自然に適応できる。と内田さんは言います。
なかなか現実を涼しく受け入れるのは難しいけど、早く入れ歯に慣れたもの勝ちのような気もするな。やっぱり「郷に入れ歯」ですな。
メジャーとマイナー
テーマ:よもやま話
2012/04/23 09:29
ダルビッシュの活躍が注目されるメジャーリーグ。今でこそ、メジャーという言い方が一般的になって参りましたが、昔は大リーグとしか言わなかったですね。大リーグという言い方も何か珍妙な感じですが、これは大相撲とか大歌舞伎とかの「大」と同じ感覚で使われたものと思われます。
小相撲、小歌舞伎(小芝居とは言う)という表現はしませんが、米国の場合、メジャーリーグに対していわゆる二軍はマイナーリーグと呼ばれます。majorが大であり主であって、minorが小であり従。majorは一言でいうと「一流の」と考えるとわかりやすいでしょうか。
そう言えば、英語で「あなたの専門は何ですか?」とか聞く時に「major」という語を使いますよね。その時は「major」しか習いませんでしたけど、改めて調べてみますと、こういう場合「minor」は主専攻にたいする副専攻という意味で使われるんだそうです。
ところで、ローマ字入力のひらがな打ちで「minor」と打とうとすると、「みのr」と出て参ります。そうだ、minoriさんって、途中までマイナーさんやん。全然マイナーじゃないのにね。
うん、むしろメジャー。超をつけてもいいくらい。ペンネームもminoriからmajoriに変えたらどうだ。マジョリさん?....、何か魔女みたいやな。
小相撲、小歌舞伎(小芝居とは言う)という表現はしませんが、米国の場合、メジャーリーグに対していわゆる二軍はマイナーリーグと呼ばれます。majorが大であり主であって、minorが小であり従。majorは一言でいうと「一流の」と考えるとわかりやすいでしょうか。
そう言えば、英語で「あなたの専門は何ですか?」とか聞く時に「major」という語を使いますよね。その時は「major」しか習いませんでしたけど、改めて調べてみますと、こういう場合「minor」は主専攻にたいする副専攻という意味で使われるんだそうです。
ところで、ローマ字入力のひらがな打ちで「minor」と打とうとすると、「みのr」と出て参ります。そうだ、minoriさんって、途中までマイナーさんやん。全然マイナーじゃないのにね。
うん、むしろメジャー。超をつけてもいいくらい。ペンネームもminoriからmajoriに変えたらどうだ。マジョリさん?....、何か魔女みたいやな。
ざらとたま
テーマ:言葉・漢字
2012/04/22 09:39
昨日に引き続き、「◯◯と◯◯」の対比シリーズ。さて、よく使うんだけど、何でそういうのかよくわからない言葉ってありますよね。たいていは調べると、あぁそういうことかぁって納得したりもするんですが、調べてもわからんこともざらにある。
いや、ざらにはないな、たまにしか。この「ざら」と「たま」、よく使うけど不思議な言葉ですね。「たま」は「偶然」の「偶」と書きまして、「まれであること、めったにないこと」という意味です。でも、何で「たま」が「まれ」なんだろう?
もっとわからないのは「ざら」。漢字でどう書くのかもわからないけど、とにかく意味は「いくらでもあって、珍しくないさま」。元々は「ざらなり」という形容動詞。
つるつるしてなくて、ざらざらした低級紙をザラ版紙、あるいは単にザラ紙といいますよね。漢字では「更紙」と書くようですが、物が新品という意味で使う「さら」というのも漢字で書くと「更」だから、こうなると全くわけがわからなくなります。
これから先は個じんとにっく的解釈なんですが、やはり「ざら」は「ざらざら」から来ているような気がします。そして、これはやっぱり「たま」の対語としての「ざら」ではないか。
つまり、「たま」は「玉」あるいは「珠」。丸くてつるつるしたものが「たま」で、そういうものはきっと珍しくそんなに数はなかったはず、だから「珠玉」として珍重された。
一方、そのあたりに転がっている石や砂はざらざらしていて、それこそ「ざら」にあるから、いくらでもあって珍しくないものを、「たま」に対して「ざら」というようになったのではないでしょうか。しかし「たま」という名の猫はざらにいるけど、「ざら」という名の猫もたまにいるのでしょうか?
いや、ざらにはないな、たまにしか。この「ざら」と「たま」、よく使うけど不思議な言葉ですね。「たま」は「偶然」の「偶」と書きまして、「まれであること、めったにないこと」という意味です。でも、何で「たま」が「まれ」なんだろう?
もっとわからないのは「ざら」。漢字でどう書くのかもわからないけど、とにかく意味は「いくらでもあって、珍しくないさま」。元々は「ざらなり」という形容動詞。
つるつるしてなくて、ざらざらした低級紙をザラ版紙、あるいは単にザラ紙といいますよね。漢字では「更紙」と書くようですが、物が新品という意味で使う「さら」というのも漢字で書くと「更」だから、こうなると全くわけがわからなくなります。
これから先は個じんとにっく的解釈なんですが、やはり「ざら」は「ざらざら」から来ているような気がします。そして、これはやっぱり「たま」の対語としての「ざら」ではないか。
つまり、「たま」は「玉」あるいは「珠」。丸くてつるつるしたものが「たま」で、そういうものはきっと珍しくそんなに数はなかったはず、だから「珠玉」として珍重された。
一方、そのあたりに転がっている石や砂はざらざらしていて、それこそ「ざら」にあるから、いくらでもあって珍しくないものを、「たま」に対して「ざら」というようになったのではないでしょうか。しかし「たま」という名の猫はざらにいるけど、「ざら」という名の猫もたまにいるのでしょうか?
昼過ぎと昼下がり
テーマ:言葉・漢字
2012/04/21 09:11
♪あ~る晴れた昼下がり、市場へ続く道.....、ドナドナドナド~ナ。この間、くまさんのブログのタイトルに「昼下がり」って言葉が出てきたのを見て、条件反射的にこの歌が浮かんで参りました。
う~ん、そう言えば「昼下がりの◯◯」とかいう映画もあったなぁ。どんな映画かは知らんけど。しかし、昼下がりって一体いつなのか?まあ、昼より下がってるわけだから、昼過ぎなんでしょうね。じゃあ、昼過ぎとどう違うのか?
大辞泉で「昼過ぎ」を引きますと、「正午を過ぎた頃、また午後になってから」とあります。一方、「昼下がり」はと言うと「正午を少し過ぎた頃」とある。少しってどれくらいなんだよぉ~。10分、30分、1時間?よくわからん。
こんな時に役立つのが「語感の辞典」なんです。まず「昼過ぎ」は「正午を少し過ぎた頃の意で、会話にも文章にも使われる日常の和語」とあり、参考情報として「通常は午後1時あたりまでを連想しやすい」と。なるほど、1時を過ぎると「昼過ぎ」とはいいづらくなると。
で、「昼下がり」の方は「『昼過ぎ』に近い意味で、改まった会話や文章に用いられる古風な和語」とある。いいですねえ、古風な和語というだけで、うんと格調高い香りが漂って参ります。
語感の辞典の真骨頂はこの後の記述。「事務的な『昼過ぎ』に比べ、のどかな情緒が感じられ、放火事件や殺人事件などの報道にはなじまない。感覚としては『昼過ぎ』よりも長く、午後2時頃まで含みそうな雰囲気がある」と。わかりやすいでしょ。
あ、そうそう、「昼過ぎ」という言葉には「色褪せて古びていること。また、そのもの」という意味もあるんですね。道理で件の映画が「昼過ぎの◯◯」って題名にはならないわけだ。
う~ん、そう言えば「昼下がりの◯◯」とかいう映画もあったなぁ。どんな映画かは知らんけど。しかし、昼下がりって一体いつなのか?まあ、昼より下がってるわけだから、昼過ぎなんでしょうね。じゃあ、昼過ぎとどう違うのか?
大辞泉で「昼過ぎ」を引きますと、「正午を過ぎた頃、また午後になってから」とあります。一方、「昼下がり」はと言うと「正午を少し過ぎた頃」とある。少しってどれくらいなんだよぉ~。10分、30分、1時間?よくわからん。
こんな時に役立つのが「語感の辞典」なんです。まず「昼過ぎ」は「正午を少し過ぎた頃の意で、会話にも文章にも使われる日常の和語」とあり、参考情報として「通常は午後1時あたりまでを連想しやすい」と。なるほど、1時を過ぎると「昼過ぎ」とはいいづらくなると。
で、「昼下がり」の方は「『昼過ぎ』に近い意味で、改まった会話や文章に用いられる古風な和語」とある。いいですねえ、古風な和語というだけで、うんと格調高い香りが漂って参ります。
語感の辞典の真骨頂はこの後の記述。「事務的な『昼過ぎ』に比べ、のどかな情緒が感じられ、放火事件や殺人事件などの報道にはなじまない。感覚としては『昼過ぎ』よりも長く、午後2時頃まで含みそうな雰囲気がある」と。わかりやすいでしょ。
あ、そうそう、「昼過ぎ」という言葉には「色褪せて古びていること。また、そのもの」という意味もあるんですね。道理で件の映画が「昼過ぎの◯◯」って題名にはならないわけだ。
曳山外題考2012
テーマ:曳山・歌舞伎
2012/04/20 10:30
祭が終わってからこういう話をするのも何なんですが、長浜の子ども歌舞伎の特徴として、演じる芝居の実際の題名とは別に独特の外題(通常5文字もしくは7文字)をつけて、桟掛けと称する札に記して掲げる、ということが挙げられます。
平成22年常磐山外題札
祭なので、毎年神様に新しいものを捧げる必要があるため、同じ内容の芝居でも題名を変えるという工夫を行なうわけです。で、この外題というのが、その芝居のエッセンス、山組の人たちの思い、その時々の世相などが反映されており、なかなか興味深いものがあります。
今年の外題を見てみましょう。まず、1番山の高砂山。「源平涙組討(げんぺいなみだのくみうち)」。これは須磨浦での源平合戦が舞台で、熊谷直実が組討の末、平敦盛の首を討つ(実際は自分の息子の首と差し替えて敦盛を逃がす)という内容をコンパクトに現していますね。
続いて、2番山の猩々丸は「尽忠恩愛断(じんちゅうおんあいをたつ)」。これも、弁慶が生涯唯一の交わりでできた娘の首を主君義経の正妻の身代わりに差し出す、という芝居の内容を、「家族への恩愛を断って主君に忠を尽くす」という題名に託しています。
さて、外題の読み方は決まっているようで決まっていない。そして漢文のようで漢文でない。町によって振付さんが決めたり、長老が考えたり、若衆が投票で決めたり、はたまた町外の識者に頼ったりとさまざまのようです。
3番山の壽山は負担人経験者による「桟掛け会議」が召集されるそうで、ある意味最も格式の高い外題決定方式を採っている町かもしれません。それでもやはりその道に長けておられる長老の意向が忖度されることが多いようです。
で、そこで決められたのが「嘆不添情柵(そわずになげくなさけのしがらみ)」。長浜では初見参の演目。妻子を残して町人から旗本へ出世した男と妻子の身の不幸を五文字に表しています。原題は「小磯原雪柵」
4番山の鳳凰山は「山咲紅白絏(やまわらうこうはくのきずな)」。舞台は雪の降る御殿ですから、「山咲(やまわらう)」の部分は春爛漫の曳山祭の情景を詠ったものでしょうか。紅白は源義家と安部一族の争いを示し、絏(きずな)は登場人物がすべて家族であること、東北大震災の被災者への思いもこめられているのか。
最後の文字と最初の文字で「曳山」になるという遊び心もある秀逸の外題といえるかもしれませんね。外題をつけるのは俳句を詠むにも似た感覚があります。こんな高等な言葉遊びの世界があるのも曳山祭りの奥深さであり魅力でもあると思います。
平成22年常磐山外題札
祭なので、毎年神様に新しいものを捧げる必要があるため、同じ内容の芝居でも題名を変えるという工夫を行なうわけです。で、この外題というのが、その芝居のエッセンス、山組の人たちの思い、その時々の世相などが反映されており、なかなか興味深いものがあります。
今年の外題を見てみましょう。まず、1番山の高砂山。「源平涙組討(げんぺいなみだのくみうち)」。これは須磨浦での源平合戦が舞台で、熊谷直実が組討の末、平敦盛の首を討つ(実際は自分の息子の首と差し替えて敦盛を逃がす)という内容をコンパクトに現していますね。
続いて、2番山の猩々丸は「尽忠恩愛断(じんちゅうおんあいをたつ)」。これも、弁慶が生涯唯一の交わりでできた娘の首を主君義経の正妻の身代わりに差し出す、という芝居の内容を、「家族への恩愛を断って主君に忠を尽くす」という題名に託しています。
さて、外題の読み方は決まっているようで決まっていない。そして漢文のようで漢文でない。町によって振付さんが決めたり、長老が考えたり、若衆が投票で決めたり、はたまた町外の識者に頼ったりとさまざまのようです。
3番山の壽山は負担人経験者による「桟掛け会議」が召集されるそうで、ある意味最も格式の高い外題決定方式を採っている町かもしれません。それでもやはりその道に長けておられる長老の意向が忖度されることが多いようです。
で、そこで決められたのが「嘆不添情柵(そわずになげくなさけのしがらみ)」。長浜では初見参の演目。妻子を残して町人から旗本へ出世した男と妻子の身の不幸を五文字に表しています。原題は「小磯原雪柵」
4番山の鳳凰山は「山咲紅白絏(やまわらうこうはくのきずな)」。舞台は雪の降る御殿ですから、「山咲(やまわらう)」の部分は春爛漫の曳山祭の情景を詠ったものでしょうか。紅白は源義家と安部一族の争いを示し、絏(きずな)は登場人物がすべて家族であること、東北大震災の被災者への思いもこめられているのか。
最後の文字と最初の文字で「曳山」になるという遊び心もある秀逸の外題といえるかもしれませんね。外題をつけるのは俳句を詠むにも似た感覚があります。こんな高等な言葉遊びの世界があるのも曳山祭りの奥深さであり魅力でもあると思います。