慈悲心

テーマ:まちづくり
昨日長浜市の「平成24年度教育行政説明校園長会」が開催されました。今年は教育長が交代されたこともあり、校園長先生方の注目は「教育長が何を語られるか」にあったのではないのでしょうか。

長浜市は「つながりあい、学びあい、豊かに生きる人づくりをめざす『ながはま』」を教育基本方針として、その下に6つの基本目標を掲げております。

北川教育長は、この6つの目標について1番目の項目から説明を始められたのですが、時間の都合で、いやおそらく最初から意図的であったろうと推測するのですが、基本目標2に関するご自身の考えを述べられることにほとんどの時間を費やし、校園長先生方に静かに、しかに熱く語りかけられました。

基本目標2とは「こどもの自立に向けて『生きる力』を育む教育を推進します」というものですが、教育長は「生きる力」というのは極めてあいまいな言葉だが、それを育むのは「学科教育」と「道徳教育」だと考える、と。

学校はまず「学びの場」「習いの場」であり、いわゆる「読み書きそろばん」である基礎、基本を徹底したい。文部省は小学校で放射能を、原子力を教えなさいと指導するけれど、小学生にそんなもの理解できますか?と疑問を呈し、将来そういう問題にぶち当たった時に対処できるための力はまず基礎、基本からの学科教育だと。

そして、道徳教育に関しては、それを行なう「目標」を明確にすることが重要であると仰いました。この目標はおそらく個々人で違う言葉になるかもしれないが、教育長は「個人的には、それは『慈悲心』であると思う」と。

作家の津本陽氏の言葉を引用されたのですが、「慈悲」の「慈」とは「草がぼうぼうとおいしげった様を表し、そこから皆いっしょにという意味。そして「悲」は「人が背中を背け合うようなつらい状態」。だから「慈悲心」とは「苦しみを共にする心」だというわけです。

「慈」も「悲」もともに「いつくしむ心」だと単純に考えていたのですが、確かに同じような意味の「慈善」と比べて「慈悲」は数段崇高な感じがいたします。「慈善」は「恵まれたものが恵まれないものに施す」ような上から目線というか「善行を共にして満足する」というにおいが私にはどうしてもぬぐえません。

大震災の被災者、あるいは社会的弱者と「苦しみを共にできる心」を持てる人はどれほどいるのか。自分自身も含めて深く反省したいところです。

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