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ひがんのじょそう

テーマ:言葉・漢字
私も念願の「胸を小さく見せるブラ」つけてみましたぁ、という話ではありませんよ、今日は。

昨日は春分の日、いわゆるお彼岸さんでしたので、お墓に花を持ってお参りに行ってきました。ついでにと言いますか、お墓の除草もしてきたわけですが、なぜお墓に生える草は、あんなに取りにくい、いやむしりにくい、いや引きにくい、いや抜きにくいんでしょうね?

てことで、皆さん、除草のことを通常何とおっしゃいます?「草取り」「草むしり」「草引き」「草抜き」?まあ、「草刈り」って言葉もありますけど、あれは雑草と言うより、何かもうちょっと大きな植物をばっさりという感じがしますね。

こういうのを調べている人がいらっしゃるんですね。全国方言WEB「ほべりぐ」によれば、全国の集計結果は、「草むしり」(41%)、「草引き」(29%)、「草取り」(23%)、「草抜き」(7%)の順だったそうです。

これね、結構地域性があるようでして、「草取り」は北海道、東北、新潟、静岡などで多く、特に宮城などは90%以上。東京を中心として関東地方は圧倒的に「草むしり」。そして「草引き」は関西に多い。

滋賀県はどうかと言いますと、「草引き」が圧倒的に多いという結果なのですが、このあたりで「草引き」ってあんまり言わないような気がします。私個人的には「草むしり」なんですが、考えてみると「むしる」ってのは残酷ですね。草への愛情というより憎しみがこもっとります。

語感の辞典を見ると、「草取り」は「雑草を取り去る意で、会話にも文章にも使われる日常の和語」とあり「『草むしり』や『除草』より一般的」と書いてあります。

一方、「草むしり」の方は「草取りの意で、会話や軽い文章に使われる和語」とあり、「生えている草を一本一本根っこごと抜くより、地面に出ている部分だけむしり取る連想が起こりやすい」

おぉ~、これは何となくわかりやすい。お墓の除草も最初は丁寧に一本一本抜いていくんですけど、そのうち邪魔くさくなって参りまして、地面に出ている部分だけゴイゴイと。私の場合、正確に言うと「草抜き」のち「草むしり」だな。


(追記)
暑さ寒さも彼岸までと申します。年末年始にかけて灯油配達担当の従業員二人が相次いで病に倒れ、一時はどうなるかと思いましたが、他の社員達の献身的な奮闘で何とかこの冬も乗り越せそうです。ご先祖様にも感謝申し上げたいと思います。

胸を小さく見せるブラ

テーマ:よもやま話
先日、スタンドで毎日新聞を読んでいたら、ふと目に留まったのが「胸を小さく見せるブラとは」という見出しの記事。ブラってのは「胸を大きく見せる」のが普通で、わざわざ小さく見せるようなもんは聞いたこともない。

ところが、20~40代の女性に「ブラジャーに何を求めるか?」というアンケートをとってみると、「胸をコンパクトに見せたい」という人が1割以上いたようで、その結果を受けてワコールがほぼ2年前に発売したそうだ。

「ワイヤの形を工夫するなどして、左右のカップを一つにつなげる形になっており、通常は空間となる胸の谷間にもボリュームを持ってきて、全体でボリュームダウンを図る仕組みだ」と、そっち方面にはうとい私には若干理解が困難な構造になっているらしい。

40代~50代のお客さんが意外に多いようだが、いずれにしろ構造よりも、この女性心理に興味がわく。ブラジャー研究家(そんな肩書きを持つ人がいることが不思議)の青山さんは次のように分析しているそうだ。

「ブラジャーは戦後の高度経済成長期のころから浸透し始め、近年の女性たちはTPOに合わせて使い分けるようになってきた。好意を寄せる男性の前では豊富なバストを見せても、職場や同性の前では抑えようという意識が働いている」

また、「バブルのころと違って今は不景気。バストを寄せて上げて男性にアピールした時代は過ぎ去り、女性も堅実に働き、守りの意識が高まっている反映かもしれない」

希望に胸をふくらませる時代は終わったのだろうか...。

吉本語録

テーマ:よもやま話
いわゆる読売、朝日、毎日の3大新聞。一昨日の一面下のコラム(編集手帳天声人語余録)の話題はすべて吉本隆明さんの逝去に関するものだった。吉本隆明氏は詩人、評論家で戦後最大の思想家と称されているようだが、一般人には娘さんのよしもとばななさんの方が有名か。

私も、吉本氏が一体どんな人物なのかよくわからないまま、氏の著作を図書館で借りて数冊読んだ。難解といえば難解だけれども、要所で本質を突いてそうなことが書かれている。でも、それは正しいような正しくないような、自分の意見と合うような合わないような、しかし気になる。そんな印象。

読んだ本は「超『20世紀論』上・下」、「『ならずもの国家』異論」、それに「子供はぜーんぶわかってる」。その中の気になった言葉というのが、

・日本は「消費を抑えたら社会が崩壊する」という、高度な消費資本主義の社会(生産者よりも消費者が強い)に入った

・酒鬼薔薇事件の加害者は一歳未満までの母親の育て方に問題があった

・エコロジストの「原始時代に戻れ」は不可能。温暖化は規制より科学的解決法で

・マルクスの「革命が起きるとすれば、一番先進的な発達をした資本主義の地域から始まる世界同時革命」という言葉

・人類の目指すべき目標は「個人の全的自由の実現」つまり「個人の自由を奪う制約をすべて取り払うこと」

・拉致事件の解決法は、被害者本人がどちらで生活したいかということに尽きる

・金正日は未熟な生き神様。北朝鮮は戦争などする気はない。戦争は脅し程度のことからでは始まらない。

・国家は宗教の最終形態である。宗教がなくなったら国家は壊れてしまう。

そして、一番最近読んだ本に書かれていた

「黙っていても学童は、先生がどんな人間かちゃんとわかっている」

確かに、今の自分よりも、子どもの頃の自分が先生を見る目の方が何となく正確だったような気はするなあ。吉本隆明氏の言葉を満足に理解はできなかったけれども、とにかくご冥福をお祈り申し上げます。

髪一重

テーマ:よもやま話
今朝、日めくりカレンダーをめくると、今日は「頭髪の日」と書いてある。調べてみると、毎月18日は頭髪の日だとのことで、昭和53年に全国理容環境衛生同業組合連合会(長っ!)が制定したらしい。

頭髪と言えば、幼い頃、座敷に飾られた先祖の写真を見て自分もいつかこうなるのかとおぼろげに感じていたものだ。

初代(曽祖父):ハゲ、二代目(祖父):ハゲ

父は不思議とフサフサしていたが、兄がこれまた薄くて、自分自身も額が広く、うなじが高く、キャンディーズ全盛の高校時代は、クラスで将来ハゲそう三人衆「アデ・ラン・スー」の筆頭に位置していたほどだ。従って関心は「ハゲるか?」ではなく「いつまでもつか?」だった。

とりあえず努力はしようと毎日洗髪することだけは心がけた。結婚するまではもった。結婚する前は「結婚さえしてしまえばいつハゲても」と思っていたのに、欲が出て「子どもが大きくなるまでは」となる。そうこうするうちに、ハゲではなく白髪が大いに増えだした。どうも様子がおかしい。

高校のクラス同窓会。「アデ・ラン・スー」のうち「ラン」と「スー」はその道まっしぐら。当然ハゲるはずだった私の頭に視線が集中。どうやら怪しまれているらしい、かぶっていると。具合の悪い事に私の頭髪部は耳を動かすと、まさにヅラのように前後によく動く。強くひっぱっても取れないので、ようやく信じてもらえた。

ところが最近コマーシャルを見ていると、どんどん技術がすすんで見た目もよくわからない製品が出てきた。以前はそんなバレバレよくつけるわ、なんて思っていたのに。むしろ鏡を見ると、自分の生え際あたりは本物のカツラよりカツラ臭く見えてきた。

「地毛と見まごうカツラ」と「カツラと見まごう地毛」。もうどっちだっていいじゃないか。

いずみの伝統

テーマ:よもやま話
先日、長浜西中の卒業式に寄せていただいた時、校長先生から「油甚さん、わが校ではこういう文集を今もずっと作り続けてるんですよ」とお渡しくださったのが、
これ
「あ、いずみですね。これ、まだあるんですか?」第67号とありますから、開校以来の伝統でしょう。実は私も長浜西中の卒業生なのですが、自分の学年の時の「いずみ」が残っていないのです。本当に発行したんかな?

私にとって印象的な文集「いずみ」は長姉の学年のもの。私より5歳年上ですから、もう40年以上前のものです。当時の「いずみ」は現在のものと様相を若干異にしておりまして、生徒の各賞受賞作文がいくつも掲載されておりました。その質の高さには正直驚愕いたします。

もちろん先生や保護者の指導や加筆もあったのかもしれませんが、今の中学生、いや高校生ですら、こんな文章は到底書くことができないだろうと思われるものばかり。

その中には、私の義兄(次姉の夫)の作文もあるのですが、当時、読売新聞社主催の「全国つづり方コンクール」の県審査で知事賞を獲得したにとどまらず、全国中央審査でも佳作に選ばれた作品で、題名はそのお祖母さんの呼称であった「お喜代さん」。

本当にお祖母さんに対する親しみにあふれた名文なのですが、選者である埼玉大学教授の作品評でも「中学の部ではかなり力作がそろっていたが、私は特に『お喜代はん』という祖母の生活史が、書き方が気がきいていて、ユーモラスでおもしろかった。」と最大級の賛辞が送られたようです。

残念ながら、現在の「いずみ」の内容は文集というより漫画の入った自己紹介と思い出話。確かに、こういう内容のものも卒業の思い出には必要であり、実際私たちの時はクラス単位で、原稿書きからガリ版刷りまで自分たちで行ない、それを作成したように記憶しております。

読書や作文に重点を置いた日本語教育は、かつては暗記を中心とした詰め込み教育の、そして近年ではゆとり教育によって置き去りにされてきたのではないでしょうか。西中の伝統維持に敬意を表しながら、もう一歩進めて、若者たちの文才が湧き出るような、まさに「泉」という名にふさわしい文集の復活を願いたいと私は思います。
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