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裏家紋のプライド

テーマ:まちづくり
先日、学校訪問で寄せていただいた小谷小学校。ここは言わずとしれた浅井氏のおひざ元。「智仁勇」の校訓にも見られるように、浅井氏三代の生き方を根本とする教育が徹底されております。

さて、その小谷小の校章は

何か不思議な感じがしませんか?そう、浅井家と言えば
三つ盛亀甲に花菱の紋

我が母校虎姫高校も、この家紋にちなんで
このような校章ですし、
旧浅井町の湯田小、田根小、七尾小、浅井小はいずれも、虎姫高校と同じく「三つ盛亀甲」をベースに中にそれぞれ「湯田」「田根」「七尾」「浅井」の文字が書かれたものとなっております。

小谷小の校長先生のお話によりますと、校章のベースになっている上記の「井桁」は、何と浅井家の裏家紋なんだそうです。
丸に井桁紋
井桁の「井」は浅井の「井」ですよね。長政や久政の位牌には「丸に井桁紋」が入っているそうで、戦国武将化する以前の浅井家にとっては、むしろこちらが本来の家紋であったのではという説があるようです。

裏家紋を使うのは「たとえ小さくても他校他町に後れをとらない心意気」を表すのだと学校紹介に書かれていましたが、裏と見せかけて、その実我らこそ「浅井の本流」というプライドがここにも現れており、心中で思わず快哉を叫びたくなりました。


頭打ち

テーマ:よもやま話
北国街道に安藤家という歴史的建造物があり、庭園にある小蘭亭の美術は北大路魯山人の作品として有名なんですが、現在は長浜まちづくり会社が賃貸して事務所としても利用されているようです。

で先日、まちづくり会社に書類を届けに行ったのですが、寒い時期なので戸は閉め切りにしております、という断り書きが表に掲示されてありました。

それと同時に入口の軒高が低いので「頭上に注意してください」と赤書きで記されておりました。見て低いことはすぐわかりますので、戸を開けて慎重にくぐったつもりだったのですが、それでも「ガシャン」と戸に頭をぶつけてしまいました。

この建築物は明治後期に建てられたようですが、今と比べて昔の建物は天井高も梁も低いですよね。うちの家も古いところは江戸後期のものだと思われますので、やたら低いんです。

まあ、伝統的にうちは背の低い人間ばかりですので、家族の者はさほど不自由を感じないのですが、これが親戚などが集まる法事とかになるとさあ大変です。ちょうど1年前に亡くなられた背の高い叔父などは、法事のたびに梁に頭をガーン!としたたかに打ちつけて、「あいたたた!」としばし動作不能状態に陥られるわけです。

校長先生までなさった立派な方ですが「これでわしの頭はどうにかなってしまう」と嘆いておられたことを思い出します。もちろん申し訳ないと思いますし、痛みに同情もするわけですが、お決まりのようにぶつけられますので、不謹慎にもつい噴き出してしまうことも。

しかし、本当に頭をやられてしまわれると洒落になりませんので、とうとう梁の下部に頭を打つ危険があることを意識させるために白いテープを張ることにいたしました。

これでもう安心、と思ったのですが、やはりしばらくはぶつけられていた覚えがあります。しかし、注意喚起がされていると、流石に怒りの持って行き場所がなかったようです。安藤家での私のように。

ちなみに、歴史上江戸時代の人々の身長が最も小さかったようで、男性の平均身長が150㎝台だったとか。

肉を食わなかったからなのか?ま、効率的な体だったのかもしれませんね。



わし我よりおか下

テーマ:よもやま話
一昨日、「ほぼ姪」の結婚式がございまして、新郎やそのご両親もよく存じ上げていることもあって、披露宴で祝辞を述べることになりました。

ほぼ姪と申しましたのは訳がございまして、新婦のお父さんは当社に長らく勤務されていたのですが、ご両親を早くに亡くされたため、結婚するまで私どもの家に住み込みで勤めておられ、うちの両親が親代わり、いや父などは実の息子たち以上に可愛がっていたかもしれません。

残念ながら11年前の4月21日、56歳でがんで亡くなられたのですが、ちょうどその年は曳山祭の出番で私は若衆筆頭。祭が終わるのを待っていてくれたかのように旅立って行かれました。

さて祝辞の原稿は作ったものの、それを見ずにスピーチしようと始めたのですが、故人のことを思い出すと胸が詰まって、話す内容が出て来なくなりまして、慌てて原稿をチラ見しながら話すことに。

原稿を作って話す場合は、どうしてもその内容にこだわりがでるので、やはり原稿を持って話すべきですね。空で話すつもりなら、最初から原稿は作るべきでないという教訓を得ました。

世間でいう適齢期をちょっと過ぎて結婚に至った二人に、If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together. というアフリカの諺を送りました。つまり「独身でいた方が物事が早く片付いて楽なこともあるけど、二人で相談したり励まし合いながらより遠くへ行ってほしい」と。

スピーチの後、同じテーブルだった新婦の伯父さんに「さっきのアフリカの諺を聞いて、あなたのお父さんが私らの結婚式で言わあった言葉を思い出したわ。わしらの仲人をしてもろたんやけど」と。

その言葉とは、「わしがわしがの我(が)を捨てて、おかげおかげの下(げ)で生きよ」というもの。これを聞いて、人のためと思っていながら、結局は我のためにやっていることが多い自分に気づかされ、父に諭されているような気になりました。

仲人をした時は、おそらく今の私と同じような年齢だったのだと思いますが、やはり人としてあの父を超えるようなことは到底無理だな、とまた改めて認識をし直した次第です。

サバを読む

テーマ:よもやま話
近年、長浜の郷土料理として「焼鯖そうめん」を盛んに売り出しておられますが、産地である若狭が近いこともあり、焼鯖のみならず、鯖寿司、バッテラ、味噌煮等々サバは我々の食生活の中で欠かせないものとなっていますね。

若狭から京都へサバを運ぶ鯖街道は有名ですが、江戸の初期には北陸のサバは江戸にも盛んに運ばれており、お盆には精霊に刺鯖(さしさば)が供えられる習俗があったそうです。

魚をお供えにする、というのはかなり違和感があるのですが、なんと魚のなかで仏に供えることが認められていたのは唯一「サバ」だけだったんだそうです。

仏教用語の中に生飯・散飯を意味する「サバ」という言葉があり、それに通ずるからだという推測がある一方、今昔物語の中にはサバが経典に変じたという聖武天皇がらみの説話があるんだそうです。

聖武天皇といえば奈良の大仏建立が思い浮かびますが、大仏開眼供養の読師を誰にするか考えていたところ、夢の中で「朝早く東大寺の門前にサバを売りにきた老人を読師にせよ」というお告げがあったそうです。

使いをやって見張っていたところ籠を背負ってサバを売りに来た老翁がいたので、夢のお告げの通り読師として無事に開眼供養を済ませたところ、終わって籠をみると中身のサバが何と華厳経八十巻に変じていたのだとか。

にわかには信じがたい話でして、ひょっとして「サバを読む」ってのはここから来たのかとも思ったのですが、その語源は魚市場の魚を数える際のごまかしからだと言われており、元々は「鯖読み」というのがあって、サバは干し上げたものを二枚づつ数えたことからついた名だそうです。

本日3月8日は「サバの日」。長浜でも鮮魚店、飲食店のサバは全部半額!ってのもサバ読みか?


(参考図書)
「サバの文化誌」 田村勇/雄山閣

週末の食卓(107)

テーマ:週末の食卓
別荘にて

(その1)
薬剤師さんが現在服用している薬の説明に来られて

薬: それでは、◯◯さん、今お飲みになっているお薬について説明させていただきます。

母: あ、お薬のことは(私をさして)この子の方が詳しいですから、こちらにどうぞ

薬: そうですか、じゃあ両方に説明させていただきますね

母: あぁ、ちょっと暗いですね

私: ほうかぁ?別に暗いことないよ

(説明が終わり)

母: すみません、こんな暗い部屋で

薬: いや、こちらの施設ですんで


もはや、自宅気分か




(その2)
普段から耳クソが異常にたまる母

母: あぁ、何や鼻がかゆいなあ

(と、鼻の穴をほじると)

母: わぁ~っ、何やこれ、こんないかいのが出てきた

私: うわっ!それ鼻くそやん。なんちゅうでかいんよ。耳クソだけでなかったんやな。

母: ほうよ、私もこんないかいの見たことないわ

私: 生まれてこのかた?

母: そう、生まれて初めて



91歳にして記録更新。目くそ鼻くそで笑う
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