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ウラはなくともおもみなし

テーマ:よもやま話
昨年の大みそかに、ケンパパさんが「占い」というタイトルで書いておられまして、最後に「みなさんは占いで何か心に残ることを言われたことはありますか?」と問いかけ。

言われてみればあるある、と思い出しまして、コメント欄で書こうと思ったんですが、いや待てよ、これはコメントで済ますのはもったいない、ネタにしよと思い直しました次第にございます。

父の死後、東京でのサラリーマンの道を諦めて当地に戻って来たことは何回となく記しておりますが、こちらに帰って来てしばらくして、近所で働いておられた女性のご主人が、まあいわゆる占いの一種をなさっておられ、よく当たるということを耳にいたしました。

私はそういうものをあまり信じる方ではない、というか自分を見透かされることがどうも落ち着かないというか、率直に言って怖いわけで、自ら進んで占いというものに身を委ねたことはございません。

ところがどうもその方が私の名前を見て、「この人はどのみち自分の家に戻ってくる人だ」と言われたということを母から間接的に聞いたわけです。つまり生まれた時から墓守をする運命だったということなんでしょうか。まさか、母が家を継ぐことを得心させるためについたウソとも思えませんしね。

もう一つ人から言われたことがあります。これも前に書いたと思いますが、学生時代アメフトをやっておりまして、練習中に腰を痛め動けなくなり入院したことがあります。ま、怪我ですからね、6人部屋だったと思います。私以外は推定50~70歳位の年配の方たちばかり。

相部屋っていうのは結構人間関係が難しく、夜ラジオを聞いている人に対して「うるさい!」と言う人がいたり、トイレに行けない人がベットの上でなさる時に香ばしい臭いが漂って来たり。ま、それでも、同部屋の方たちとは何となく打ち解けて会話を交わしたりもするようになります。

ある日、私の向かいのベッドにいらっしゃった老人男性が突然、「私はね高島易断をやっとるんだが、あんたは実にいい相の顔をしておる。将来大物になる」みたいなことをおっしゃったわけです。別にその方に親切なことをしたり、お見舞いのお菓子をおすそ分けしたなんてことも無かったのに。

まあ、決して悪い気はしませんでしたね、その時は。今考えて見ますと、腰が痛くて動けない若者が、病気で入院してウンウン言っているおっさんに「いい相の顔をしている」と言われても、その信憑性は低いなとしみじみ思うわけでございます。ウラはなくとも、お・も・み・な・し、「重みなし」。

子世代の巫女さんと

テーマ:よもやま話
昨日は例年のごとく長浜恵比須宮十日戎のご奉仕に出仕。天気予報がいい方に大きく外れまして、午前中は暖かいくらいの陽気。もっとも時折り吹く突風に並べておいた福飾りが何度も飛ばされるハプニングはありましたが。

さてこのご奉仕をさせていただいて20年近くになりますが、いつの間にかボランティアの巫女さんたちが自分の子供世代になってしまいました。ま、自分がだんだん齢をとってるわけですから当たり前っちゃあ当たり前なんですけど。

昨日も同ブースの巫女さんは二人とも20代前半。最初はどこのどなたかも存じませんで「はじめまして」っちゅう感じだったんですが、役員をされているS酒店さんが来られて巫女さんのお一人に「あれ、◯君の娘さんやね」と。「はい、そうです」と答えた彼女の顔を見ると、「あぁ、何となく雰囲気あるある」

私もよく存じ上げてる方のお嬢さんでしたわ。「お父さんのお姉さんは私の同級生やがなぁ。最近従兄が結婚しゃんたやろ~」と話がどんどん盛り上がる。後でお父さんにお会いしまして「娘さん、何となく似たるな」と言いますと「いや、ほれはあんまり嬉しないみたいなんで」と。

後ですっごい美人の奥さんが現れやありまして理由がようわかりました。やっぱお母さん似と言われるのが本望でしょうな。ま、ご両親共にバランスよく似ていらっしゃる女学生さんでありました。

さて、もう一方の巫女さんは駅前のホテルで仕事をなさっているとのことで、ホテルそのものにお勤めかと思いきや「いえいえ、テナントでマッサージを」「えぇ~!?もしかして、ホットハンズさん?」「はい~」

「ほんならくまさんとか一緒やん」「え、くまさんご存知なんですか?てことは、ブログの人?」「そうそう、じんとにっくです」「あぁ~ん、酒屋さんでしたっけ?」。それはゆうこりんやろ。「いやいや油屋です」

その後くまさん談義でひとしきり盛り上がりまして、他のスタッフが「どんな人なん?」と興味深く聞いて参りましたが、二人の結論はやっぱり「う~ん、やっぱりちょっとこの辺にはやあれんような女性やなぁ~」と。

「ホットハンズは足裏マッサージもあるん?」と尋ねますと、30分で3000円を切るようなお手頃価格だそうで、その他会員価格など3段階に分かれているそうな。

「ほうかぁ。いっぺん行ってみよかな~」「はい、ぜひぜひ」「けど、人に見せられるような足の裏ちゃうしなぁ」「え、恥ずかしがり屋さんなんですか?」。娘世代の女の子にほんなこと言われるとは。そうそう、おじさんは恥ずかしがり屋さんなんよ。

そこまで言うのが委員です

テーマ:よもやま話
やしきたかじんさん亡くなられましたね。歌手としての活躍はほとんど知りませんで、私の中のたかじんさんはもっぱら日曜日の午後読売TVで放映の「たかじんのそこまで言って委員会」。

仕事の都合上、生ではなかなか見ることができないのですが、録画して必ず見ています。東京では放映されない、というのが一番の魅力かもしれません。

が、何か違うな、と思わせる昨今の同番組。たかじんさんの休演中も、三宅久之さんがいる間は良かった。コメンテーターがいくら好き放題言っても、三宅さんという良識者がいることで安心して番組を見ていることができました。

三宅さんの後任ということで誰がやっても荷が重いということを差し引いても、津川雅彦さんの傲慢ぶりはちょっと不快だし、そもそも民主党政権の時はその批判、チェック機能を果たしていたけれど、安倍政権になってからは、なんだか幇間の集まりの御用番組になってしまったようで....。

たかじんさんとずっと番組を引っ張ってきた辛坊治郎さんは、たかじんさんを評して「ガラス細工のように、ものすごく繊細な人だった。右派的な発言をする人が多く、一方的な番組になりがちなところを、幅の広いリベラルな考え方のたかじんさんが全部まとめていたからこそ、成立していた」と話したそうな。

辛抱さんの後を引き継いだ山本浩之さんは期待以上によくやってるとは思うけど、櫻井よし子さんが司会として出て来たら、コメンテーターが皆借りてきた猫みたいに大人しくなっちゃいますもんね。反対意見が言えない、言いづらいっていう雰囲気が一番恐いんですけどね。

田島陽子さん一人をピエロにしていじめるより、せめて保守とリベラルが7:3くらいで真剣に議論して欲しい。でもまあ、所詮読売テレビの番組ですからねぇ。ここも例のグループ会長兼主筆独裁の「ナベ心臓」内閣ですもんな。とにもかくにも、たかじんさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

焼き餅を焼く

テーマ:よもやま話
午年の「午」という字は馬とは全然関係なくて、どうやら餅つきの杵の柄のないやつが上下する様を現した字だそうな。

餅つきといえば、自宅で餅つきをする家は昔と比べて減りましたね。うちも今はお餅屋さんに頼んで搗いてもらっています。搗いてもらう量はだんだんと減らしているのですが、それでも結構余る。

自宅の床の間、店、スタンド2箇所の大きな鏡餅、その他神棚、仏壇などに小さな丸餅、そしてのし餅。長く放置すると固くなるので4日に鏡開きをして、細かく切って冷凍庫に押し込み、それでも余るので従業員に分けたり兄弟に送ったり。

昔はもっと量も多かったし冷凍もしなかったのにどうしていたんだろう?と考えますと、ひとつは水餅って言うんですか、水にふざけておく。と言うよりもっとたくさんお餅を食べたんですかね。

1/5の日経新聞の文化欄に歌人の馬場あき子さんも書いておられましたが、昔の人たちの正月の食の中心は何と言っても餅。明治時代などは一人8個くらい食べるのが普通だったそうな。

今は大体一回2個かせいぜい3個。女性などは1個しか食べませんもんね。何でこんなに食べなくなったんですかね。他のごちそうがいっぱいあるからというのが一番の理由なんでしょうけど、わざわざ正月に食べなくてもいいというのはあるかもしれません。

それこそ冷凍技術が進んで、解凍すればほぼ搗きたてと変わらない状態で食すことができ、年中通して食べられるし、最近はパックになった切り餅も一般的になりましたもんね。

それから馬場さんの文に「昔の大家族の家では、新年の餅焼きは子供の仕事だった。火鉢の火や囲炉裏の火に大きな金網を乗せて二十個くらいは焼けたものだ。火に霜焼の手をかざしながら結構楽しいお手伝いである」と書かれていました。

そうそう、昔は火鉢で餅を焼いてたなあ。二十個なんてとんでもないけど、五個くらいは焼けたかな。固いお餅が少しずつ柔らかくなって、ひっくり返したり、そのうちだんだん美味しそうな焦げ目がつき、やがてぷく~っと鼻ちょうちんのように膨らんで。

今はオーブントースターなどで焼きますから、この餅を焼く「楽しさ」は半減以下になっているのではないでしょうか。風呂焚きもそうですけど、便利になったおかげで失われた「楽しみ」ってやっぱりあるなあ。子供にも焼き餅を焼かせる体験が必要かもな。

馬を牛と言う

テーマ:言葉・漢字
午年ということで、馬にちなんだ故事ことわざを考えていたのですが、すぐに思いつくのが「馬が合う」「馬の耳に念仏」とか「馬耳東風」、あとは「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」とも言いますね。

「馬に乗って馬を探す」なんてのもあるようです。自分のすぐ近くにあるのを忘れて、とんでもないところを探し回るたとえで、めがねをかけてめがねを探すようなもんですね。なぜか誰かさんのお顔が浮かんでまいりました(笑)。

さて「馬を牛と言う」ということわざもあるようで、ネットで検索してみますと一番に「ことわざ辞典」のサイトが出てきまして、開くと次のように定義されておりました。

『権威や圧力で水からの主張を無理矢理押し通すことのたとえで、人の心中を察することのたとえ。』

うわっ、何じゃこら。まず「水からの主張」ってどうよ?また誰かさんのお顔が浮かんでまいますやん。さらに、その主張を無理矢理押し通すことが、何で人の心中を察することになるの?この定義こそ「馬を牛と言う」でしょ。

さて屁理屈はともかく、「馬を牛と言う」が「自らの主張を無理矢理通す」ことのたとえであることは、まあ普通にわかりますよね。馬であるものを「あれは牛だ」と言うわけですから。

さてもう一方の意味である「人の心中をいち早く察する」ことを何故「馬を牛と言う」というのか?成語林によりますと、この意味のもとになった次のような逸話が江戸時代の随筆集「雑和集」に出てくるそうです。

「孔子が弟子たちを連れて歩いていると、垣根から馬が頭を出していた。それを見て孔子が『牛だ』と言うと、弟子たちの中で顔回だけは、十二支の『午』の字が頭を出すと『牛」になることを悟ったという」

はぁ~、なるほどねぇ。孔子の心中を顔回だけは察していたということなんですかね。て言うか、孔子さんシャレ言ってる場合かよ。もっとも成語林には続いてこう書いてありましたわ、「もとより実話でない」と。こりゃ徹頭徹尾、馬を牛と言うだな。



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