大きな顔の消費者

テーマ:よもやま話
農業改革に関する新聞記事を読んでおりましたら、「コメを守るのは誰のため?」とありまして、要は誰のためにもなってないのではないかという疑問を呈しているわけですが、その中に「まず、消費者である私たちは本来安く買えるコメを高値で買わされてきた」と書いてある。

まあ、農業改革に関する議論をするつもりも能力もないわけですが、この「消費者である私たち」とか「我々消費者」という言い方ってどうなんでしょう?

これは前にも書いたかもしれませんが、人間ってのは多面的で「消費者」という一面だけを持った人間なんていないはずでしょ。「生産者」だと胸を張って言える人は少なくても、流通や金融に関わっていたり、あるいは公務員だって「消費者」ではない顔も必ず持っているはずです。

どうも消費者という立場のみを切り離すから、エゴイスティックになるような気がします。「安く買えればいい。◯◯円損した」と嘆く一方で、もう一つの自分の顔になると、安売り合戦に巻き込まれたとか、給料が全然上がらずやっていけないとぼやく。

そもそも「消費者」ってことばには、そんなに偉そうな顔をする意味が込められているんでしょうか?「消して費やす者」ですよ。そこには感謝や遠慮はあっても傲慢さがあったらあかんでしょ。そんな人たちが尊ばれる社会はどうなの?

「我々納税者が払った貴重な税金を云々」、っていう言い方も好きではありません。ま、あまり税金納めてないから偉そうなこと言えないんですけど。多面的な顔を持つ生活者としては、「消費者」としての顔をもうちょっと小さく控え目にしませんか?

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