獲麟
テーマ:言葉・漢字
2015/04/24 09:12
自分自身ブログを書き始める前に愛読していたブログが二つありました。一つはメイさんの「北近江あわあわ記」なんですが、もう一方のブログを先日たまたま開きましたら「脱稿」というタイトルで、そのブログの終焉を告げる内容が書かれていました。
事情はよくわかりませんが、ちょっと残念です。とは言うものの、まあ最近全然読んでいなかったんですけど。それにしても「脱稿」とは。「だっこう」と聞くとついお尻の病気を思い浮かべてしまう私は不謹慎。
ちなみに脱稿を辞書で引きますと「原稿を書き終えること」とあり、用例として「長編小説をーする」が書かれていました。ま、これくらい長期で書かれたブログもそうないでしょうし、まさに長編小説と言ってもよしでしょう。
さて、以前に筒井康隆さんかだれかが、もう小説は書かないと宣言されましたが、あれは確か「絶筆」でしたね。筆を置くとも言いますが、「筆を絶つ」となるとより強烈なイメージがいたします。
これの類語で「擱筆(かくひつ)」という言葉があることを知りました。「筆を置いて書くことをやめること。文章をおえること」という意味で、「連載小説は今回をもってーすることとする」というのが用例に。
「擱」は「擱く(おく)」つまり「置く」や「措く」と同義ですから「擱筆」は文字通り「筆をおく」ということなのですが、一見意味がわからない分、何となく高尚なイメージがあり、ちょっと使ってみたくなります。
しかし、世の中さらに上手な言葉があるんですね。それが「獲麟(かくりん)」。麟とは麒麟のことで、孔子がその著「春秋」の「西に狩りして麟を獲たり」の句で筆を絶って死んだところから、「獲麟」は絶筆を意味するんだそうな。
麒麟というのは太平の世に出現すると云われていたのに、太平というのには縁遠い時代に麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから春秋を絶筆したのだとか。
先の脱稿されたブログの筆者も、もしかして気分的には「獲麟」的なやるせなさからであったのではないかと僭越ながら推量するわけで、いつかどこかで再び筆を執られんことを祈ります。コブログでどうでっか?
事情はよくわかりませんが、ちょっと残念です。とは言うものの、まあ最近全然読んでいなかったんですけど。それにしても「脱稿」とは。「だっこう」と聞くとついお尻の病気を思い浮かべてしまう私は不謹慎。
ちなみに脱稿を辞書で引きますと「原稿を書き終えること」とあり、用例として「長編小説をーする」が書かれていました。ま、これくらい長期で書かれたブログもそうないでしょうし、まさに長編小説と言ってもよしでしょう。
さて、以前に筒井康隆さんかだれかが、もう小説は書かないと宣言されましたが、あれは確か「絶筆」でしたね。筆を置くとも言いますが、「筆を絶つ」となるとより強烈なイメージがいたします。
これの類語で「擱筆(かくひつ)」という言葉があることを知りました。「筆を置いて書くことをやめること。文章をおえること」という意味で、「連載小説は今回をもってーすることとする」というのが用例に。
「擱」は「擱く(おく)」つまり「置く」や「措く」と同義ですから「擱筆」は文字通り「筆をおく」ということなのですが、一見意味がわからない分、何となく高尚なイメージがあり、ちょっと使ってみたくなります。
しかし、世の中さらに上手な言葉があるんですね。それが「獲麟(かくりん)」。麟とは麒麟のことで、孔子がその著「春秋」の「西に狩りして麟を獲たり」の句で筆を絶って死んだところから、「獲麟」は絶筆を意味するんだそうな。
麒麟というのは太平の世に出現すると云われていたのに、太平というのには縁遠い時代に麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから春秋を絶筆したのだとか。
先の脱稿されたブログの筆者も、もしかして気分的には「獲麟」的なやるせなさからであったのではないかと僭越ながら推量するわけで、いつかどこかで再び筆を執られんことを祈ります。コブログでどうでっか?