裸参りの意義

テーマ:曳山・歌舞伎
先日、ぱんやさんが「やっぱり裸参り」という題で書かれておりましたが、今年は東日本大震災の影響で、総当番の意向と山組の判断がないまぜになり、結局青海山と月宮殿の2町は例年通りの裸参り、春日山は羽織参り、そして諫皷山は2日目のみ裸参り、その他は羽織参りとなったようです。

さて、裸参りは「良い籤を引き」「子ども役者の健康を祈願」するために行なわれるものであり、その意味ではまさに祈りの神事で自粛する必要もないと思われますが、実態は小競り合いはおろか喧嘩沙汰に発展する危険性のある行事であることが、通常実施の懸念材料となったのだと思います。

私が長浜に帰ってきてから羽織参りを見るのはこれが2回目。確か平成9年でしたか、壽山の負担人さんが祭典前に急死され喪に服して同町が裸参りに代わって羽織参りをされた記憶があります。考えてみると、上記の2つの目的だけなら羽織参りでも何ら問題はないとも言えます。

やはり裸参りにはもっと違う意義もあるのではないか?

まず、曳山祭は、建前は子どもが主役であり、だからこそ女性の理解も得ながら今日まで永続してきた。しかしながら実質的には筆頭を中心とする若衆の祭だと私は思います。一方、曳山祭は基本的に静的な祭であり、いわゆる表行事は粛々と執行されていくものであります。

若衆は稽古期間から子ども役者を見守り、励まし、資金集め、道具作りなど徹底的に裏方に徹し、さらに本番も狂言が無事執行されるように気を張り続けなければならないわけです。これは実は非常にストレスがたまることであり、真剣に取り組めば取り組むほどそうなります。

稽古と本番の狭間に位置する「裸参り」の行事は、若衆が唯一主役となれる場であること、そして「ガス抜き」「ストレス発散」という本音の部分の意義を軽視すべきではないのではないかと、当事者である若衆を卒業してふと感じるわけです。縁の下にも日が差す瞬間とでも言いましょうか。

もちろん、2009/4/13のブログ「あきまへん」に書いたように、意図的な喧嘩はもっての外です。しかし、大声を出して、水をかぶり、そして神に祈り、他町の集団の揺れる提灯の光に気を奮い立たせ、緊張感をもってすれ違う。時には偶発的な小規模の小競り合い。

この行事を経て若衆は稽古期間中のもやもやを振り払い、一丸となって本番への士気を一層高めていくわけです。長浜曳山祭の表舞台が静的であればあるほど、裏の唯一動的ともいえる裸参りはその存在価値が高まり、やはり両者は相互相俟って曳山祭全体の魅力を高めているのではないかと思うわけです。

やっぱり、今年の裸参りは寂しかったな。その前に寒すぎたけど。

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