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型とアイデンティティ

テーマ:まちづくり
何だやっぱり松江に遊びに行ったんじゃないかと思われると困りますので言い訳しときますけど、観光の時間はほんの2時間ほどで、あとはびっしりと「くにびきメッセ」なる立派な施設の中でびっちりと研修が。

今回は「キャリア教育」にスポットが当てられていたようでして、「自らを育てる力はどこから来るか -キャリア教育の土台となるもの」という題で島根大学の肥後副学長さんが基調講演をなさったのですが、これがなかなか興味深いものでした。

例えば、母親が赤ちゃんに対して無表情で接したらどうなるか?

どうですか?怖ろしいでしょ。赤ちゃんは2,3分で自分を失って壊れちゃいましたね。大人でも無視されると心理的にはこの赤ちゃんのようになるわけですね。無視という形のいじめの恐ろしさを実感いたします。

さて、外来語で日本語に訳しにくい、あるいはよく意味がわからない言葉が時々ありますよね。その一つである「アイデンティティ(identity)」。自己同一性とか、もう少しわかりやすく主体性と訳されますが、ちょっとぴんと来ません。

identify A (with) B というのは、もともとAをBと同じとみなす。という意味だそうです。人間はいつも自分と何かあるいは誰かと重ねてみて、これは一緒だ、いや違う、今度はまた別の人やものと重ねて、一緒だ、違うという確認作業をくり返していくものなんだそうです。

そうして自分のアイデンティティを築きあげていくわけですが、何かと重ねてみた時の「ズレ」が自分らしさになるわけですね。

最近は教育において、子供の「主体性」とか「個性」を強調するあまり、「枠」や「型」にはめることが避けられているきらいがあるけれども、枠や型をおしつけるのではなく、「型」の気持ちよさ、「型」の快感といったものを伝えることが大切なのではないかと、肥後さんはおっしゃっておりました。

これを聞いて、曳山祭はまさにこの「型」の快感を子供に体感させているんだということを再確認いたしました。亡くなった中村勘三郎さんが「型破りは型があるからできるんだ。型がなけりゃカタナシだよ」とおっしゃっていたことを思い出します。

いったん型をしっかり身につけて、そこから自分なりのズレを発見していき、それが個性となりアイデンティティとなっていくんでしょうね。

出雲そばと豆富

テーマ:旅日記
松江の名物と申しますと、解禁になったばかりの松葉ガニ、和菓子、そして出雲そばでしょうか。懇親会は珍しく居酒屋で飲み放題カニづくしセットだったのですが、ブランド蟹からは程遠い冷凍物が...。

気を取り直して翌日研修会終了後の昼食は出雲そば。松江城にほど近い「八雲庵」という名店でロケーションが抜群。悠々と鯉が泳ぎ回る池を見下ろした離れ風の部屋は情緒満点。

採れたばかりの新そばということで歯ごたえ抜群。出雲そばは割子そば、つまり3段重ねの浅い円柱型の漆器にそばが入っているのですが、通常と異なるのはタレにつけて頂くのではなく、そばの方にタレをかけるんですね。

調子よくダバダバとかけましたら、どす黒いタマリのような色をした液体が出てまいりまして、アレアレアレ?何じゃこりゃ。どうやらこの濃い辛めのタレを少量からませて食するのが流儀だそうな。食べたことはないのですが伊勢うどんの蕎麦版みたいなもんなんでしょうか。神様は濃いお醤油が好きなのかな?

昼食後は昨日記した小泉八雲記念館等を回った後に松江城に。

なかなか立派な天守閣ですが、最上階に達するまでは急な階段をいくつも上って行かねばならず、最後下りてきた時には足が釣りそうな始末。日頃の運動不足を痛感いたします。

さて、最近読んだ「方言漢字」(笹原宏之/角川選書)という本に、島根県では「豆腐」ではなくて「豆富」という縁起字が頻繁に使われている、というようなことが書いてありました。タクシーの運転手さんにそのことを尋ねてみると、「そうだね~、確かにどっちかっていうと、豆富の方が多いかなぁ」と。

もっとも当地もご多分に漏れず、いわゆる街の豆腐屋さんは減少の一途をたどっているとか。先の本によれば、「豆富」の字は島根県豆富商工組合が豆腐のイメージアップのために申し合わせた当て字のようですが、既に昭和中期にそうした看板がやたら目についていたそうです。

そんな時、松江城の中で見たこんな資料

昭和中期の解体修理工事で取り外され保存されていた部材の木口に「富」の文字が入った刻印があることが確認されたそうです。松江城築城には広瀬の月山富田城(がっさんとだじょう)の部材を一部転用したとの伝承があることから、この刻印はそれを裏付けるものだと考えられているとのこと。

どうやら、豆腐が「豆富」と記されることとは何の関係もないようですな。




ちょっとだけ松江

テーマ:旅日記
昨日、一昨日と滋賀県都市教育委員会連絡協議会の県外研修として島根県の松江に行って参りました。観光ではなく西日本の市町村教育委員会研究協議会に参加するのが目的。

今年も大津駅に集合しバスで移動の予定だったのですが、例年会場に缶詰で講演と分科会参加のみでせっかく遠方まで行ってもその土地の文化、香りに接する機会が全くない乾いた研修でしたので、今回は私が無理をお願いして、長浜だけ電車で行って2日目の日程終了後にわずかでも現地散策の時間がとれるように組んでもらいました。

宿泊と夜の懇親会は県内他市と合同だったんですけど、泊まったホテルはちょっとたまげましたね。ドアを開けた瞬間に部屋の狭さに思わず「何、これ~!」。その階の見取り図を見ると、法の限界に挑戦!みたいな感じでさまざまな形状の数多くの部屋が配置されており、外気に接していない部屋も多数。

翌日、松江駅から泊まったホテルが見えまして、納得。この値段ならしゃあないわな。

さて、松江といえば以前に「緯度端会談」というタイトルで小泉八雲のことや長浜と緯度が同じであることを書いたことがありますが、おかげさまで小泉八雲記念館や小泉八雲旧居(ヘルン旧居)にも訪れる機会を得ました。

八雲は1年3ヶ月しか松江には居なかったのですが、三方を庭で囲まれた武家屋敷に住み、庭がちょうど全て見渡せる床の間を背に座るのがお気に入りだったそうです。

日本人のセツさんと結婚したわけですが、小泉八雲記念館のしおりの中に「松江時代の行動歴」というのが書いてあって、それを眺めておりましたら、次のように書かれておりました。

1891年(明治24年)
 1月中旬  風邪でしばらく床につく
 1月下旬  セツが住み込み女中として世話にあたり、やがて事実上の結婚という関係に進展する。

患者さんと看護婦さんが結婚するという例は結構あるようですけど、やっぱり体が弱っている時にお世話になった女性は天使に見えるんでしょうね。

大津事件の真相

テーマ:よもやま話
大津事件ってご存知ですか?いじめの方ではありませんで、明治24年に来日し人力車で大津の繁華街を通過中のロシア皇太子ニコライに、路傍で警備していた滋賀県の津田三蔵という巡査が帯剣で斬りかかって負傷をおわせた事件。

NHKで放映された「坂の上の雲」では、ニコライの個人的恨みとなって日露戦争の一因にもなったように描かれていたと思いますが、確かに他国の皇太子に斬りかかるなど言語同断。

滋賀県で起きたということもあり、高校の日本史の授業で先生がこの事件のことを熱弁されていた記憶がありますが、なぜ巡査がこんな狂気じみたことをしたのかは考えたことも教わったこともありませんでした。

10/27(日)日経新聞の「熱風の日本史・西郷生存伝説の狂騒」を読んで納得。明治10年に西南戦争で最期を遂げたとされる西郷隆盛。しかし、明治の庶民は義経伝説のように「西郷は国外に逃れた」という生存伝説を信じたんだそうです。

明治22年の大日本帝国憲法発布による大赦で西郷は国賊の汚名を雪がれ正三位を追贈されます。この名誉回復が西郷生存説に火をつけ爆発的に広がったそうです。そしてこの年ロシアのニコライ皇太子が来日。で、シベリアに逃れロシアで将軍となった西郷がニコライに同行すると、新聞が書き立てたそうな。

こうした西郷生存説の流布を聞いた明治天皇が「もし西郷が帰ってきたら、西南戦争の官軍側の勲章を取り上げるか」と冗談を言われたそうですが、この話を真剣に受け止めて苦悩したのが先の津田三蔵巡査。

彼は官軍兵士として西南戦争に従事し銃弾で負傷。戦後その勲功により勲七等に叙せられる。巡査として不遇だった津田にとって従軍歴と勲章はまさに自らの存在価値を担保する誇りであったわけです。

「もし西郷が帰国して日本の指導者に返り咲けば、西南戦争の官軍・賊軍の立場が逆転し、命より大切な勲章を剥奪されるのでは」という恐怖に囚われた津田。

彼は西郷帰還説を流布させたのはロシア皇太子だと思い込み、当時の日本人が共有していたロシアへの恐怖心、皇太子来日の目的が偵察だとする風説も影響し、皇太子を憎悪するようになったそうです。被害妄想が高じてノイローゼ状態だったのだろう、とコラムには記されていました。

西郷という途轍もない人物の大きさと、勲章によって肥大し過ぎた個人の名誉欲がかの凶行を生んだというわけでしょうか。

祝SirMurai先生の受勲

テーマ:よもやま話
皆さんお書きになっておられるように、昨日の楽天の優勝は見事でしたね。近代野球の常識では考えられない、160球完投翌日の田中投手の登板。全然関係ありませんが、何となく日露戦争の勝利ってあんな感じだったのかな、と戦法や勝ち方を見て感じた次第です。

24勝無敗。28連勝。シーズン、日本シリーズの胴上げ投手、沢村賞等々数々の勲章を手にしたマーくん。星野監督も宿敵巨人を倒し、初の日本一監督という勲章を手に入れました。

勲章といえば、昨日は文化の日で新聞紙上などで各受勲者の発表がございました。この中に皆さんがよくご存知の方がいらっしゃったことに気づかれましたでしょうか。

そうです、2011年の6月から2013年の1月まで「江たち浅井三姉妹とお市ものがたり」というタイトルでブログを書いておられましたSirMurai先生が、教育界での貢献により「瑞宝双光章」を受章されたのです。

何度か書いておりますように、先生は私の中学校3年生の時の担任。私のブログで最初にご登場いただきましたのは、確かちょうど4年前に市功績者の表彰を受けられた時でした(「村居先生おめでとうございます」)。

そのブログの最後に「村居先生、市功績者表彰おめでとうございます。でも、それくらいで喜ぶほど老け込まんで下さいね」とエールを送ったのですが、その通りに2年前の「江・浅井三姉妹博覧会」では浅井を日本中に発信する獅子奮迅の大活躍。

まあ、その時のご活躍は今回の受勲とは直接関係ないようですが、さすがに今回は「それくらいで喜ぶほど...」とはよう申し上げませんけど、出来ましたら一時的でも結構ですので、あの楽しくて興味の尽きないブログを再開してほしいなあ。

兎にも角にも、受章誠におめでとうございます。
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