大津事件の真相
テーマ:よもやま話
2013/11/05 09:25
大津事件ってご存知ですか?いじめの方ではありませんで、明治24年に来日し人力車で大津の繁華街を通過中のロシア皇太子ニコライに、路傍で警備していた滋賀県の津田三蔵という巡査が帯剣で斬りかかって負傷をおわせた事件。
NHKで放映された「坂の上の雲」では、ニコライの個人的恨みとなって日露戦争の一因にもなったように描かれていたと思いますが、確かに他国の皇太子に斬りかかるなど言語同断。
滋賀県で起きたということもあり、高校の日本史の授業で先生がこの事件のことを熱弁されていた記憶がありますが、なぜ巡査がこんな狂気じみたことをしたのかは考えたことも教わったこともありませんでした。
10/27(日)日経新聞の「熱風の日本史・西郷生存伝説の狂騒」を読んで納得。明治10年に西南戦争で最期を遂げたとされる西郷隆盛。しかし、明治の庶民は義経伝説のように「西郷は国外に逃れた」という生存伝説を信じたんだそうです。
明治22年の大日本帝国憲法発布による大赦で西郷は国賊の汚名を雪がれ正三位を追贈されます。この名誉回復が西郷生存説に火をつけ爆発的に広がったそうです。そしてこの年ロシアのニコライ皇太子が来日。で、シベリアに逃れロシアで将軍となった西郷がニコライに同行すると、新聞が書き立てたそうな。
こうした西郷生存説の流布を聞いた明治天皇が「もし西郷が帰ってきたら、西南戦争の官軍側の勲章を取り上げるか」と冗談を言われたそうですが、この話を真剣に受け止めて苦悩したのが先の津田三蔵巡査。
彼は官軍兵士として西南戦争に従事し銃弾で負傷。戦後その勲功により勲七等に叙せられる。巡査として不遇だった津田にとって従軍歴と勲章はまさに自らの存在価値を担保する誇りであったわけです。
「もし西郷が帰国して日本の指導者に返り咲けば、西南戦争の官軍・賊軍の立場が逆転し、命より大切な勲章を剥奪されるのでは」という恐怖に囚われた津田。
彼は西郷帰還説を流布させたのはロシア皇太子だと思い込み、当時の日本人が共有していたロシアへの恐怖心、皇太子来日の目的が偵察だとする風説も影響し、皇太子を憎悪するようになったそうです。被害妄想が高じてノイローゼ状態だったのだろう、とコラムには記されていました。
西郷という途轍もない人物の大きさと、勲章によって肥大し過ぎた個人の名誉欲がかの凶行を生んだというわけでしょうか。
NHKで放映された「坂の上の雲」では、ニコライの個人的恨みとなって日露戦争の一因にもなったように描かれていたと思いますが、確かに他国の皇太子に斬りかかるなど言語同断。
滋賀県で起きたということもあり、高校の日本史の授業で先生がこの事件のことを熱弁されていた記憶がありますが、なぜ巡査がこんな狂気じみたことをしたのかは考えたことも教わったこともありませんでした。
10/27(日)日経新聞の「熱風の日本史・西郷生存伝説の狂騒」を読んで納得。明治10年に西南戦争で最期を遂げたとされる西郷隆盛。しかし、明治の庶民は義経伝説のように「西郷は国外に逃れた」という生存伝説を信じたんだそうです。
明治22年の大日本帝国憲法発布による大赦で西郷は国賊の汚名を雪がれ正三位を追贈されます。この名誉回復が西郷生存説に火をつけ爆発的に広がったそうです。そしてこの年ロシアのニコライ皇太子が来日。で、シベリアに逃れロシアで将軍となった西郷がニコライに同行すると、新聞が書き立てたそうな。
こうした西郷生存説の流布を聞いた明治天皇が「もし西郷が帰ってきたら、西南戦争の官軍側の勲章を取り上げるか」と冗談を言われたそうですが、この話を真剣に受け止めて苦悩したのが先の津田三蔵巡査。
彼は官軍兵士として西南戦争に従事し銃弾で負傷。戦後その勲功により勲七等に叙せられる。巡査として不遇だった津田にとって従軍歴と勲章はまさに自らの存在価値を担保する誇りであったわけです。
「もし西郷が帰国して日本の指導者に返り咲けば、西南戦争の官軍・賊軍の立場が逆転し、命より大切な勲章を剥奪されるのでは」という恐怖に囚われた津田。
彼は西郷帰還説を流布させたのはロシア皇太子だと思い込み、当時の日本人が共有していたロシアへの恐怖心、皇太子来日の目的が偵察だとする風説も影響し、皇太子を憎悪するようになったそうです。被害妄想が高じてノイローゼ状態だったのだろう、とコラムには記されていました。
西郷という途轍もない人物の大きさと、勲章によって肥大し過ぎた個人の名誉欲がかの凶行を生んだというわけでしょうか。