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こぴっとGO TO BED

テーマ:よもやま話
新しく始まった朝ドラ「花子とアン」。今週からは主役のはなちゃんが子役から吉高由里子に変わるようですが、2週間終わったところまでの感想は、おしんと寅さんとハリーポッターの合わせ技みたいだけど、結構面白い。

第1週で、はなが倒れて死にかかっていた時に、伊原剛志演ずるお父が「はな~~~っっっっつ!!!」と大声で呼びかけるシーンがあったんですが、その瞬間お父の鼻から洟水がずる~っと垂れ落ちた時は、思わず「そっちのハナかよ」と突っ込んでしまいました。

ヒロインが、「はなじゃない、花子と呼んで」とずっと言い続ける理由がわからんでもないですね。

それから随所に現れる甲州弁の「こぴっと」。最初「少しだけ」という意味なのかな、と思っていたのですが、どうやら「しっかりと」とか「きちんと」という意味のようですね。「こぴっとブログを書くずらよ」みたいな。

はなが通う女子校のブラックバーン校長先生が、はなたちが悪いことをした時に発する「Go to bed!!!」も強烈ですね。
Go to べ~~~~~ッド!!!
これって、文字通り「寝てなさい」ってことなんですが、本当に布団に入って謹慎するんですね。他には何もしてはいけないと。

マルセンちゃんが、ナレーターの美輪明宏さんがラストで言う「ごきげんよう さようなら」が今年の流行語大賞候補になるかも、とおっしゃっておりましたが、私は「こぴっと」「GO TO BED!」の方を推薦しとこ。

所信表明(2)

テーマ:まちづくり
(昨日よりの続き)

平成12年に曳山博物館ができた時に当時NHKのアナウンサーであった葛西聖司さんをお呼びして講演会を行ったのですが、その時の言葉が印象に残っておりますのでここで紹介いたしたいと思います。

「長浜の祭が大人たちによって運営されていることは間違いない。子ども歌舞伎はその祭のハイライトではあっても一部でしかない。でも、その大人たちがいかに真剣にこのことに取り組んでいるかってことを子どもに見せるってことが大切なんですね。だから怒ることも大切であるいはなだめることも大切です。励ますことも大切だけれども、要は子どもってのはねえ、大人を見てるんですよ。

隣のおじさん、あのおっちゃん、酒ばかりの飲んでるおっちゃんが、この祭の間中だけはすごいや、ね。あるいは見も知らないよそのお師匠さんが来て教えてくれる。何でこんなに僕達に厳しく教えるんだろうかってことが、芝居を経験するとわかってくる。こういう大人たちの真剣さを見せる機会として祭というのは最高のチャンスなんですね。心の裸を見せれば、親には反抗する子でも聞きますね。社会が育てていくってことはですね、愛です。私はその言葉こそ訴えたいと思う。」


後ほど事務局から説明があると思いますが、今般教育委員会では「長浜子どものちかい」そして「長浜子育て憲章」を策定し目指すべき子どもの姿、そしてそれを見守る大人が実践すべきことがらを目標として掲げました。目指すべき大人の姿としてまず一番目に挙げられていることは、「子どもに誠実に生きる姿を見せます」ということ。偶然の一致ではなく、まさにそれこそが教育というものの本質ということではないでしょうか。

もちろん自分では誠実、真剣にやっているつもりでも、それが空回り、あるいは自己満足に終わっているということもままあるでしょう。そしてそういう時はいわば、履物を無造作に脱ぎ捨てて散らばっている状況であるのかもしれません。そういう意味でも冒頭申し上げましたように、「心の履物をそろえる」つまり自分を見つめ直す機会を設けることの重要性を再認識いたしたいと思います。

最後になりましたが、この1年間、校園長先生そして事務局の皆様方と力を合わせ、長浜市の教育の発展のために微力ではありますがベストを尽くす所存ですので、何卒よろしくお願い申し上げます。機会がございましたら、ぜひ曳山祭にも足をお運び下さいませ。ありがとうございました。』



という具合に挨拶をさせていただいたのですが、風邪なのかアレルギーなのか鼻がつまり喉がむずむずして、ちょっと話しにくかったですね。ま、何はともあれ、一仕事終わってちょっとほっといたしました。さ、祭だ、祭だ。

所信表明(1)

テーマ:まちづくり
昨日は午後から長浜市内の小中学校長、および幼稚園・保育園長さんにお集まりいただき、平成26年度長浜市教育行政方針説明会が開催され、曳山祭の稽古はお休みさせていただいて出席して参りました。

この説明会の冒頭に教育委員長が挨拶をすることになっておりまして、こういうのを所信表明と言うんですかね。最初は原稿なしで臨もうかと思ったのですが、そうするにはあまりに重い職責。緊張で頭真っ白になったら取り返しがつきませんので、原稿を置いてチラチラ見ながらお話しすることといたしました。

あ、もうついでだから、その文案そのままブログにしちゃいましょうか。隠すことでもないですしね。ネタとしても助かりますし。(以下あいさつ文)

『ただいまご紹介いただきました油甚(とは言ってない)でございます。今年度教育委員長という大役を拝命いたしまして重責に身の引き締まる思いであります。本日お集まりの校園長先生方には平素より学校経営にご尽力を賜りまして高段からではございますが厚く御礼申し上げます。

ご承知のとおり、私は一介の商人であり教育者としての経験がない教育委員ですが、常に自分の行動について振り返る重要性を感じているところです。機会あるごとに北川教育長が「履物をそろえること」の重要性を唱えておられます。私は従前は履物には全く無頓着で脱いだら脱ぎっぱなしの人間でした。これを揃えるためには腰を屈めなくてはなりませんし、いささか面倒であることは否めません。しかし、そうすることにより自分の足元を見つめ、行動を振り返る機会になることは身を以って実感しているところです。

さて、桜花爛漫、長浜曳山祭も本番が近づいてまいりました。私自身山組の人間でありますが、今年ご縁をいただきまして北町青海山さんの太夫として出場することになりました。今般、日本全国の山・鉾・屋台行事がユネスコの無形文化遺産の審査案件として提案されることが決定され、長浜の曳山祭がその一つに含まれていることは非常な名誉であると感じているところです。

曳山祭は子ども歌舞伎がメインですが、ここには学校教育の手本になる要素が多分に含まれているという評価がなされます。大きな声を出す。姿勢を正す。あいさつをきちんとする。

子どもたち一人一人に応じた役柄が与えられ、役の軽重はあっても一人が欠けると芝居は成り立ちません。すべての子どもに持ち場があるわけです。そして子どもたちはセリフ、所作に関して、いわゆる型を徹底的にしこまれていきます。

昨今、学校教育においても、子どもたちの個性を大切にとよく言われますが、その一方で「型」というものの重要性が忘れられているのではないでしょうか。まず「型」を完全に身につけることにより子どもは自信をつけます。型があってこその個性。

一昨年末に早世した歌舞伎俳優の18代目中村勘三郎さんは型破りの役者と言われていましたが、常々「型があってこその型破り、型が無ければ型なしだよ」とおっしゃっていたそうです。子どもたちにも是非「型にはまる快感」を味あわせる教育をお願いいたします。

(長いので明日に続く)

1円に泣いて印紙で笑う

テーマ:よもやま話
消費税アップで何が面倒くさくなったかって、やっぱり宅急便が一番かもしれません。地方発送の注文の荷物を取次店に持っていくのですが、例えば送付先が関西の場合

60㎝(2kg)サイズ   740円 → 764円
80㎝(5kg)サイズ   950円 → 972円
100㎝(10kg)サイズ  1160円 → 1188円

に変わりました。持ち込みだとここから100円引きになるのですが、以前はお釣りをもらわなくてもいいように丁度の金額をなるだけ持っていくことにしていたのですが、1円玉が混じるとそんなこともしておれません。

取次店の方でもまだ変更された金額になじまず、え~といくらやったかいな?と値段表を確認し、さらにお釣りも間違えそうになるなど混乱されているようです。

当店としても1円単位までお客さんに請求できないので、自然と端数は切り捨てて自店負担となります。従来から1円単位の商いに慣れているスーパーと違って、手間を考えると切り上げて十円単位にしてくれた方が皆が有難いのではないでしょうか。

さて、ところで消費税の影に隠れて4月から印紙税がこっそり変わったのをご存知でしょうか?従来3万円以上の代金領収証には印紙(200円)を貼らなければなりませんでしたが、この金額が5万円に引き上げられました。

こちらの方はあまりメディアでも取り上げられておりませんので、知らない人も多いのではないでしょうか。従来通りのやり方を続けても政府として税収減にはならないので敢えて言わないのでしょうか。

一般消費者には関係無いかもしれませんが、零細企業としては1円に泣いた分、せめて印紙で笑うことにいたしましょう。

素っ裸と真っ裸

テーマ:言葉・漢字
今日からいよいよ曳山祭の裸参りが始まります。ま、裸参りと言っても素っ裸、いや真っ裸で走るわけではありませんのやけど。

さて、4月から朝日新聞beで、中村明先生の「ことばの食感」というコラムがスタートいたしました。氏は私が愛用している「日本語 語感の辞典」の著者なのですが、その記念すべき第1号のテーマが「素っ裸」と「真っ裸」。皆さん、この違いわかりますか?

ちなみに、両方共それぞれ「素裸(すはだか)」、「真裸(まはだか)」の会話的な強調表現で、全裸の状態を指す点では共通しているわけですが、両語では発想が違うとのこと。

まず、「素肌」「素手」「素足」と同様、「素っ裸」は衣類を一枚でも身につけているか否かという観点から、最後の下着を取り去った瞬間に実現する。言うなれば身をおおう布が1かゼロというデジタルな世界。

一方の「真っ裸」は、「真っ赤」「真っ青」「真っ正直」と同様、厚着から次第に薄着の状態に近づくというように連続的に全裸状態に接近する最終の結果、いわばバスタオルを少しずつずらしながら最終的に実現するアナログの世界とみることもできる、と氏は解説しています。

ちなみに、その伝から川端康成の「伊豆の踊子」のヒロインが湯上がりに主人公の目に晒したのは「素っ裸」だろうと想像したら、実は「真裸」とあったそうな。主人公は湯上がりじゃなくて湯に入る前の脱衣を覗いてたんでしょうか?

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