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曳山外題考2015

テーマ:曳山・歌舞伎
生憎の雨となりました今年の曳山祭。昨日は午前11時から鳳凰山の自町狂言を終えて、その後は登り山。例によって店に帰って胡麻油の瓶詰め、包装作業を片付けてから八幡宮へ各町の外題を確認に。

例年ですと、4山並んだ姿を写真に収める観光客の姿も見られるのですが、今年は雨でどの山もすっぽりとシートに覆われ、山の前に各町の負担人さんが渋い顔をして立っておられるだけで寂しいものです。私もすっかり写真を撮るのを忘れておりました。

さて、透明のシート越しに外題札に書かれた文字を確認。まず一番山の猩々丸ですが、うわっ!達筆すぎて読めんがな。近づいて何回も見ているうちに最後の一文字以外は解読。最後の一文字は負担人さんに尋ねてわかりました。「忠節参詣車技(ちゅうせつさんけいのくるまわざ)」だそうです。

菅原伝授手習鑑三段目の荒事「車引」。梅王丸、桜丸が吉田神社参詣の折に時平公の乗る車に出くわす場面が外題に表わされております。通常5文字か7文字で構成されるところ、6文字外題はなかなか珍しい。

続いて2番山の高砂山は「天晴義女鑑(あっぱれぎじょのかがみ)」。演目は「加賀見山旧錦絵」。岩藤による主人尾上への虐待に対するお初の仇討ちが見せ場ですからね。女忠臣蔵と呼ばれる芝居ですから「義士」に対して「義女」という言葉が用いられたのでしょうか。

仮名手本忠臣蔵九段目山科閑居を演じる3番山の鳳凰山は、「暁雪一節契(あかつきのゆきひとよぎり)」。討ち入り直前の風景を「暁雪」で表し、「一節契(ひとよぎり)」は虚無僧の吹く尺八の別名「一節切(ひとよぎり)」と力弥、小浪の「一夜限(ひとよぎり)」の関係を掛けています。

4番の壽山は「龍神比翼情(りゅうじんひよくのなさけ)」。ついこの間まで長浜市教委教育指導課長だったS副負担人によれば「命名者はいつものようにK長老。Kさんは『比翼』という言葉が好きなんやわ」と。

同町が演ずるのは「鳴神」ですが、今年の祭が天気が悪いのはもっぱらこの芸題のせいだという噂で持ちきり。雨乞いで最後封印された竜神が飛び出て豪雨になるという話ですからね。しかも、ちょっとエロチック。

どうせ雨なら、鳴神上演中にタイミングよく本当に雷鳴が轟くようなすごい事態でも起きんかな。

朝日新聞の取材

テーマ:曳山・歌舞伎
従軍慰安婦問題や原発事故関連の記事で評判が地に落ちた朝日新聞。うちは昔から続けて購読しておりますが、地元ネタが全く充実していないことでも有名であります。

その朝日新聞が、滋賀版の「近江滔々」というコラムで今年長浜曳山祭を連載で特集記事にされております。3月の中旬から始まり、祭の諸行事や祭を担う人々に焦点を当てたものとなっているのですが、実は私も4/7に三役の太夫として登場いたしました。

すさまじい形相で写っておりますが、カラオケをのうのうと歌っているわけではないので、こういう顔になることももちろんございます。普段は違うよ。

この記事を書いておられるのは大津支局の女性記者さんなのですが、事前に約1時間半にわたってインタビューを受けました。私の生い立ちから曳山祭との関わり、そして太夫という役目を負うことになった経緯等々、それこそ根掘り葉掘り聞かれたわけです。

いや悪い意味ではなく、こちらの心の琴線に触れるような質問を次々として来られるのには驚きました。事前に私の大まかな経歴や立場なども抑えておられ、歌舞伎についても演目などにも詳しく造詣が深い印象を受けました。

で、1時間半にわたって話した内容をどのようにまとめられるだろうかと思っていたのですが、流石ですね。冗長な表現はなく、しかも私が話したかった肝の部分は見事に抑えられています。一般の読者は何気なく読み過ごすかもしれませんが、当の私にだけはよくわかります。

掲載の直前にも表現や内容についての確認の電話がありました。幼い日湯船の中で聞いた父の浄瑠璃が私が太夫となる一つのきっかけになったことを話したのですが、私が言った「身に染み付いていたんでしょうね」という言葉。「身にしみていた」とか「身に染み込んでいた」としてはいけませんか?と

「『染み付いた』では悪い意味に取れますかね?」「えぇ、そんな気がして」ということで、仕上がって出て来たのが「身にしみこんでいたのやなぁ」だったのですが、ここはやっぱり「身にしみついてたんやろなぁ」だったかな。

しかし、記者さんがこんな細かい表現一つ一つを丁寧に確認されるとは想像だにしていませんでした。記者の主観で勝手に記事を書き綴られることが多い中、まだまだ朝日新聞は捨てたものではないな、と再認識をした次第です。

もう一つ、最後の「この人生もよかったかな」というところは、あえて「よかった」と断定にはしなかったのですが、それで良かったでしょうか?とも。「それで結構です」。まだまだ自分の人生に結論は出したくないですもんね。

さすが大星

テーマ:曳山・歌舞伎
昨日は曳山祭の裸参り3日目。以前は毎日のように見に行っていたものですが、近年は太夫として出場させていただくようになり、風邪でも引いたらえらいことになるので外出は控え目にしておりました。

しかし昨日は、比較的気候も温暖で家の前を通過する「よいさ」の声にどうも我慢できずに、「ちょっと行ってくるわ」。私の気持ちをとうの昔に察している妻は「どうぞ、どうぞ」。とりあえず風邪予防のため、ベンチコートを着て毛糸の帽子を被り、さらにマスクをして家を出ます。

今年お世話になる鳳凰山の隊列に付いていったわけですが、警護をされている知人の背中を後ろからポンと叩いて挨拶したものの、相手はキョトンとした表情をされているので、マスクを取ってもう一度顔を見せると、「な~んや油甚さんかぁ。誰かと思いましたがな」と。

そうか、この格好じゃ誰やわからんのかいな。試しに別の方にも声を掛けたのですが、この方も「誰や、こいつ?」という怪訝そうな顔。正体を明かすと、「おいおい、IS(イスラム国)かと思たがな」。
ちなみにこんな格好でしたんや

確かに、すれ違う知人のほとんどの方は私と気付かれなかったようでして、こちらから黙礼すると黙礼を返されますがそれ以上の反応はありません。ある女性は声をかけてもニコッと笑っただけでしたので、マスクを取りますと、いきなり破顔大笑で「あぁ~ん、こんばんはぁ~」と。

ところがね、一人だけ向こうからあいさつをして来た人がおりました。「こんにちわ~」と声を掛けられましたので、「え?誰かわかるの?」と聞くと「はい」と。彼は鳳凰山の子供役者のS史君ではありませんか。

子供の目は誤魔化せませんなぁ。そうそう、S史君は大星由良之助役。昼行灯らしいけどさすがに夜目は鋭いな。



相生の松と尉と姥

テーマ:曳山・歌舞伎
さて仮名手本忠臣蔵九段目山科閑居は、大星由良之助の息子力弥と加古川本蔵の娘小浪の祝言を巡る母親同士の攻防が一つの見せ場となっております。

中に、力弥の母お石が「♪相に相生の松こそ目出度かりけり」と祝儀の小謡を謡いながら登場する場面があるのですが、そもそも「小謡(こうたい)」というのは、謡曲中の短い一節を謡うために抜き出したもので、この場合は、有名な「高砂」の中の「四海波」という一節だそうな。

「相生の松」というのは雄松と雌松が途中で合わさったもので、夫婦の契りの深さに例えられるんだと。北町青海山の中に相生町という町がありますが、おめでたい名前なんですね。ちなみに「相生(あいおい)」は「相老」つまり夫婦が仲良く連れ添って長命であるという意味も掛けられているそうです。

さらにお石のセリフの中には「尉と姥」という言葉が出てまいります。「じょうとうば」つまり能におけるお爺さんとお婆さんということなのですが、言いにくいのか「じょうとんば」と発音されることが多いと思います。

これまた謡曲「高砂」に基づくもので、能の衣装をつけた老夫婦が熊手とほうきで松の落ち葉をかき寄せるが絵画・人形・彫刻などにされ、婚礼などの祝いに用いられる、とあります。

これも相老と同じ発想で、夫婦が仲良く長く連れ添うことを祝ったものなのでしょうが、面白いのは熊手とほうきを持っていること。これは何か意味があるのでしょうか?

「おまえ百まで私ゃ九十九まで」という言葉がありますが、ほうきは履く(=百)を、熊手は九十九まで(熊手)を表すという俗説があるそうな。お爺さんが熊手を持ってますね。やっぱり男は先に死んで奥さんに見送って欲しいのよね。

胴欲

テーマ:曳山・歌舞伎
歌舞伎や文楽を見ておりますと、現在ではあまり使われない言葉がよく使われる、ということは何回か書いたように思いますが、そのうちの一つに「胴欲な」というのがありますね。特に若い娘などが父親や母親に向かって「胴欲なことを仰ります~」とかよく言います。

「ひどく欲が深くて不人情」という意味なのですが、今ではたまーに文章の中で出てくるくらいで、会話で「そりゃ胴欲でございます」なんて言いませんよね。

お芝居の中では、「欲が深い」というよりもむしろそこから転じた「無慈悲だ」「むごい」「ひどい」といったような気持ちを強く言い表すときにこの言葉が使われているように思われます。だから無慈悲な目に遭うことが多い娘役からよく発せられるのかもしれません。今回の鳳凰山の芝居でも出てまいります。

しかし、何で「胴の欲」が無慈悲なのかようわからんなぁ、と思って辞書を引いてみると、「貪欲(どんよく)の音変化」とあります。あ、貪欲は今でもよく使いますね。「欲が深い」という意味ではありますが、現在は「貪欲に知識を吸収する」などとむしろいい意味に使われることが多いから面白いものです。

ところが、現在「どんよく」と読んでいる「貪欲」は元々は「とんよく」と読む仏語(フランス語じゃなくて仏様の語)だそうで、「三毒・十悪の一つ」と辞書に書いてあるではありませんか。ちなみに三毒とは

貪(とん):欲望にまかせて執着しむさぼること
瞋(しん):自分の心に逆らうものを怒り恨むこと
痴(ち):無明、無知であること

チントンシャン、三味線みたいですな。ところで「十悪」って何やてか?「そりゃ胴欲なこと仰ります~」。いや、あんまり貪欲に調べることは毒であり悪だそうですので、この辺でやめときますわ。
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