不協和音的つながり
テーマ:曳山・歌舞伎
2014/06/15 09:00
「浄瑠璃を読もう」(橋本治/新潮社)という本を読んでいたら、次のように書いてありました。
「浄瑠璃は『聴くもの』であり『歌(バラード)』である。リズムやメロディに反応しても、いきなり飛び出す言葉の意味にはストレートに反応できない」。そうそう、聞いてても何のこっちゃようわからんですね。だから国立劇場なんかでも字幕が出るようになった。
続いて「時々断片的に解される言葉の意味が脳に飛び込んできて、やがて言葉と音とが一体化して理解されるようになる」と。なるほど、何回も聞いているとそんな感じですね。一種の外国音楽みたいなもんか。
浄瑠璃には縁語や掛詞が多くて、それが魅力の一つなのですが、そのせいで意味不明瞭になっているのも事実。しかし、縁語や掛詞で意味を分かりにくくさせているのは「音楽化する作業」なんだそうです。要は意味なんかわからんでもええ。ラップ音楽やと思って聞いとけと。
聞いている側からすると「歌」でええわけですが、語る側に立つと「歌うのではない。語れ」と言われ戸惑います。浄瑠璃を始めた頃は、節に合わせて歌うもんだと思っておりました。いや、今でも頭では違うと思いながら知らず知らずに歌っている自分に気がつくことがままあります。ま、それの方が楽だからかもしれません。
「『読む』は『語る』に転化する」とありますが、「語る」っちゅうのは「読む」と「歌う」の中間ってことなんでしょうか?そう言えば、かの近松門左衛門は「節にふしあり 節にふしなし 言葉に節あり 言葉に節なし 語るに語りて 節に語るな」という六句を残したそうな。これが理解できるのはいつになることか。
「メロディは『人の声』の方にあって、伴奏楽器(三味線)はその『人の声』に対してリズムを整えるもの」とも書いてありました。太夫と三味線がそれぞれに勝手なことをやって、それが結果として一つになっている。確かに、途中はバラバラにやっているようで節尻は合う、という方がいいみたいです。
浄瑠璃とは、そういう「不協和音的なつながりを楽しむ」もんなんだそうです。本日は午後2時より曳山博物館にて素浄瑠璃の発表会。まあ、今日はまもなくワールドカップ日本戦でそれどころではないですね。まずは日本チームの「協調和音的なつながり」を楽しみにしたいと思います。
「浄瑠璃は『聴くもの』であり『歌(バラード)』である。リズムやメロディに反応しても、いきなり飛び出す言葉の意味にはストレートに反応できない」。そうそう、聞いてても何のこっちゃようわからんですね。だから国立劇場なんかでも字幕が出るようになった。
続いて「時々断片的に解される言葉の意味が脳に飛び込んできて、やがて言葉と音とが一体化して理解されるようになる」と。なるほど、何回も聞いているとそんな感じですね。一種の外国音楽みたいなもんか。
浄瑠璃には縁語や掛詞が多くて、それが魅力の一つなのですが、そのせいで意味不明瞭になっているのも事実。しかし、縁語や掛詞で意味を分かりにくくさせているのは「音楽化する作業」なんだそうです。要は意味なんかわからんでもええ。ラップ音楽やと思って聞いとけと。
聞いている側からすると「歌」でええわけですが、語る側に立つと「歌うのではない。語れ」と言われ戸惑います。浄瑠璃を始めた頃は、節に合わせて歌うもんだと思っておりました。いや、今でも頭では違うと思いながら知らず知らずに歌っている自分に気がつくことがままあります。ま、それの方が楽だからかもしれません。
「『読む』は『語る』に転化する」とありますが、「語る」っちゅうのは「読む」と「歌う」の中間ってことなんでしょうか?そう言えば、かの近松門左衛門は「節にふしあり 節にふしなし 言葉に節あり 言葉に節なし 語るに語りて 節に語るな」という六句を残したそうな。これが理解できるのはいつになることか。
「メロディは『人の声』の方にあって、伴奏楽器(三味線)はその『人の声』に対してリズムを整えるもの」とも書いてありました。太夫と三味線がそれぞれに勝手なことをやって、それが結果として一つになっている。確かに、途中はバラバラにやっているようで節尻は合う、という方がいいみたいです。
浄瑠璃とは、そういう「不協和音的なつながりを楽しむ」もんなんだそうです。本日は午後2時より曳山博物館にて素浄瑠璃の発表会。まあ、今日はまもなくワールドカップ日本戦でそれどころではないですね。まずは日本チームの「協調和音的なつながり」を楽しみにしたいと思います。