時若師匠ご逝去
テーマ:曳山・歌舞伎
2011/12/12 09:11
楽しい出会いあれば、悲しい別れあり
オフ会の日は皆既月食の日でもありましたが、大歌舞伎松竹の三味線奏者であり、わが翁山の振付師、そして義太夫の師匠でもあった豊沢時若先生が、欠けたまま再び満ちることのない月のように、この世からお隠れになりました。
かつて野村が長島を向日葵に喩え、自らを月見草と称したことがありましたが、同じく長年お世話になった故豊沢重松師が天真爛漫で太陽のようであったとすると、時若師匠は決して派手ではないが滋味のある月のような方でした。
昨日、三役塾や翁山の仲間たちと京都でのお通夜に参列。透析を始められた後入院されてからは、結局一度もお会いできないままの別れとなりましたが、すっかり小さくなってしまわれたお顔に手を合わせてお別れとお礼を申し上げて参りました。
平成13年に初めて翁山の振付師をお願いし、この時の外題が「神霊矢口渡」。私の息子が初上がりの年でもありました。3年後の平成16年は自分が若衆筆頭を務めたのですが、曳山上で「俊寛」を上演するという挑戦ができたのも、時若先生(振付名は中村福太郎)が振付師であったからこそでした。
矢口渡の稽古にて
さらに平成16年から3年間ほどは、現在三役修業塾の師匠である桂川千賀龍先生が体調不良の間、義太夫と三味線の指導者として長浜に通っていただきました。この時私は伝承委員会の三役修業塾係として、稽古の日程調整や先生との連絡役や送迎などの事務方を担当しておりました。
そして塾生の新規募集も行なったのですが、思うようには集まらず、既存の塾生諸氏も師匠が代わったこともあり、稽古場から足が遠ざかるといった感じで、なかなか活況を呈するという具合にはなりませんでした。ある日、先生曰く、
「油甚さん、あんた責任とって、太夫しなさい」
というわけで、私の義太夫人生は時若先生の一言から始まりました。先生との出会いがなければ、今の私はありません。本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお眠り下さい。
オフ会の日は皆既月食の日でもありましたが、大歌舞伎松竹の三味線奏者であり、わが翁山の振付師、そして義太夫の師匠でもあった豊沢時若先生が、欠けたまま再び満ちることのない月のように、この世からお隠れになりました。
かつて野村が長島を向日葵に喩え、自らを月見草と称したことがありましたが、同じく長年お世話になった故豊沢重松師が天真爛漫で太陽のようであったとすると、時若師匠は決して派手ではないが滋味のある月のような方でした。
昨日、三役塾や翁山の仲間たちと京都でのお通夜に参列。透析を始められた後入院されてからは、結局一度もお会いできないままの別れとなりましたが、すっかり小さくなってしまわれたお顔に手を合わせてお別れとお礼を申し上げて参りました。
平成13年に初めて翁山の振付師をお願いし、この時の外題が「神霊矢口渡」。私の息子が初上がりの年でもありました。3年後の平成16年は自分が若衆筆頭を務めたのですが、曳山上で「俊寛」を上演するという挑戦ができたのも、時若先生(振付名は中村福太郎)が振付師であったからこそでした。
矢口渡の稽古にて
さらに平成16年から3年間ほどは、現在三役修業塾の師匠である桂川千賀龍先生が体調不良の間、義太夫と三味線の指導者として長浜に通っていただきました。この時私は伝承委員会の三役修業塾係として、稽古の日程調整や先生との連絡役や送迎などの事務方を担当しておりました。
そして塾生の新規募集も行なったのですが、思うようには集まらず、既存の塾生諸氏も師匠が代わったこともあり、稽古場から足が遠ざかるといった感じで、なかなか活況を呈するという具合にはなりませんでした。ある日、先生曰く、
「油甚さん、あんた責任とって、太夫しなさい」
というわけで、私の義太夫人生は時若先生の一言から始まりました。先生との出会いがなければ、今の私はありません。本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお眠り下さい。