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土壇場

テーマ:言葉・漢字
今日もこれから作新学院と対戦ってことで今更なんですが、「八幡商、土壇場で逆転サヨナラ!」なんて文字が各紙に踊ってましたね、先日は。感動を与えてくれてありがとう、という柄でもありませんで、考えることは「ところで、何で『土壇場』て言うんやろ?」。やな奴ですな。

土が壇になっている場?ん、マウンドか?いや、サヨナラホームラン打ったんはバッターや、ピッチャーちゃう。マウンドでホームランは打てん。

語源由来辞典調べました。ほぉ~、やっぱり元々は「土を盛って築いた壇の場所」と。それが、なになに、江戸時代になると、斬首刑つまり首斬りン時に罪人を土壇場に横たわらせるようになったぁ!?

そこで「刑場」の意味にいったん相成りまして、それが転じて「どうにもならない場面や最後の決断を迫られる場面」の意味として使われるようになった、と。

最近、「ドタキャン」なる言葉を何気なく頻繁に使用しております。これ「土壇場でのキャンセル」ってことなんですけど、語源を知ると、何だか、水戸黄門とかで急にお裁きが変わって、冤罪で死刑になるはずだった町人が急に許されるみたいな場面を想像してしまいます。

あるいは、首を斬られた死んだはずの罪人が「キャン!」とか言って生き返る...とか。書いてるうちに、「死んだ人が生き返らないか夜を通して見張る」というお通夜の由来を思い出してしまいました。

昨日は3年前になくなった高校時代の親友の命日。早朝にお墓参りに行ってきました。いつになっても亡くなったなんて信じられん。Aやん!ドタキャンして戻って来い!

Gメン歩き

テーマ:よもやま話
先日、祝町通りを自転車で走ってましたら、前方に観光客と思しき方たちのかたまりが...。5,6名で団子になるでもなく、ばらけるでもない状態で。

隙間をぬって前に通り抜けようとしたら、おもむろに2人くらいがその前に現れ、ついに全員が横一列状態に。私の自転車にはチンチンがついてないので(♀か?)、しばらく後ろからついていって、その中の誰かが気づいてくれるのを待っていましたが...。

このように、通りを我が物顔で横一列になって歩く団体、観光地ではどこでも見られますよね。かく言う自分も観光客の立場になれば、無意識のうちにそんな風にして歩いているのですが、後ろから自転車でチンなんてやられようなものなら、思わずそちらを睨みつけてしまうかもしれません。

立場変われば人変わる。なんですが、このように通りをふさいで横一列になって歩くスタイルを、我々の世代は確か「Gメン歩き」と呼んでいたと思います。Gメン75、覚えてますか?75っていうくらいですから1975年。おぉ、もう35年以上も前のことか。

ねえ、偉そうな顔して横一列になって歩いてますやろ。しかし、観光客におけるGメン歩きの心理というのは一体どうなっているんでしょうね?何であんな風なことになるんでしょうか。ネットで検索してもこういうことを研究、考察された形跡もありません。

どうなんでしょう、個人的に思いますのは、まず慣れない観光地なので、皆から遅れて迷子になりたくない、というのがあると思うのですが、それなら誰か目立つ人の後ろにぴったりとくっついて行けばいいわけで、わざわざ横一列になることはないでしょう。

もう一つは、観光地ですので、とにかく珍しいものが見たい。いや、まず自分が最初に何か変わったことを発見したい!そして、「あれ見てみ、すごいと思わへん?」と仲間にその発見を自慢したい、ということがあるかもしれません。

この場合、人の尻についていくだけでは目的が果たせず、自分が前に前に出る必要が生じますね。お互いがその思いで競いあうことによって、自然と横一列になってしまう。おお、競争による見事な均衡。いかがでしょう、あなた流の「Gメン歩きの心理学」、あったら是非ご披瀝下さいませ。

結・万葉びとのこころ

テーマ:よもやま話
ついでなんで、上野誠先生の講演に出てきた話、全部書いちゃうことにします。だって面白いんですもん。皆さん、安さに飛びついてバーゲン品を買って失敗した、いわゆる「安物買いの銭失い」の経験ありません?

何と奈良時代にもそんなことがあったという歌が残っているんですね。

西の市に ただひとり出で
目並(めなら)べず 買ひてし絹の
商(あき)じこりかも

(上野先生訳)
西の市に 一人でいって
よく見比べず 買ってしまった絹は
買いそこない(だったよ~ん)

この歌には、実はこの時代においては「隠れた傷のないかぎり、返品できない」という経済の論理が浸透してきたという裏の意味が隠されているんだそうです。返品できないからこそ、買い損ないになるわけですね。


ところで、古代においては恋人同士は相手を思い出すもの、つまり「形見」を交換したそうです。普通の古典研究家はここで止まるらしいですが、上野先生は(自称)天才なので、じゃあもし恋人たちが別れたらその形見はどうするのか?と考えたそうです。

そして古典の中に、ある歌を見つけるわけですね。ある時天皇から寵愛を受けている娘がいたが、やがてその寵愛が薄れたのちに、天皇は「形見」をお返しになった。娘は恨みに思って、とにかくも次の歌を作り天皇に献上したそうです。

商返し(あきかへ)し
許せと御法(みのり) あらばこそ
我(あ)が下衣(したごろも)
返(かへ)し賜(たま)はめ

(上野先生訳)
買った品物を不良品でもないのに
身勝手に契約解消して返してよいという法律が
この天皇さまの国にあるというのでしたら・・・
私がアナタにあげた下着を勝手に送り返して来てもよいでしょう
(デモ、ソンナ法律アッタカシラ)

先の歌にあったように、この時代、不良品でない限り返品はできないわけですね。しかも、その法律をお作りになる天皇さまご自身が、それを破って形見を返して来られたことに対する恨みの歌です。

それにしても、この時代、恋人同士はお互いの下着を交換したんですね。それも、身につけていたものを洗濯せずに、というのが決まりだったそうです。ちなみに、この天皇さま、時代からして、かの聖武天皇だったとか...。

続・万葉びとのこころ

テーマ:よもやま話
さて、昨日のブログちょっと長くて、最後まで読んでない人多いやろけど、「日本霊異記」に描かれた、親不孝な男の話。このように続きます。


皆が帰った後、母親はなぜか自らの乳房を出して、悲しみで目を濡らしながら、こういったのである。「おまえを育てたときは、忙しくて日夜休む時間もなかった。他人の子供は、成長してその恩に報いている。

それを見るにつけ、こちらはどうだ。私はこんな非道な子供を持って、いま反対におまえから辱めを受けている。私の期待はむなしく砕かれた。おまえは今、私に貸し付けた稲の代価を求めた。

ならばまた、私もおまえに与えた乳の代価を請求しよう。母と子の道は今日をもって閉ざされた。天界の神もご覧あれ、地上の神もご覧あれ、悲しきかな、痛きかな ―」と。

彼は一言も発せず、立ち上がり、持っていた借金の証文をすべて焼き払い、発狂したという。そして、ある日膽保(みやす)の家から突然発火し、全財産を失って、家族は離散。最後は、飢えて寒さに凍えて...。


死んでしまったんですね。このお話の主眼は「乳の代価は無限大」ということ。乳の代価を請求された私たちはそれを払うことなど到底できないわけですよね。

人間関係の基礎である親子関係を絶たれ、アイデンティティを失った膽保(みやす)は、自分が何かわからなくなって死んでしまうという、すさまじい結末。

これが奈良時代に書かれた古典です。古典はその時代に即した肌触りの言葉で書かれていながら、現代でも生き生きと説得力をもって訴えかけてくるものですね。この日は道徳教育研究会ではなかったのですが、何物にも勝る道徳教材であったような気がします。

万葉びとのこころ

テーマ:よもやま話
「出会いってのはこわいですね。今日ね~、長浜来る時に電車の中で、この研修会の案内持ってる4人組に偶然....。その中の一人がね、『何でこんなくそ暑い時に研修会なんかやるんだよぉ~!いい教育するためにはこの時期は休んだ方がいいんだよぉ』。って、なるほどね。それから、別の人が

『ところで、今日の講演って【万葉びとのこころ】やったっけ。俺そんなもん絶対寝るわ。寝たら起こして』。『そんなん、途中で抜けて喫茶店行ったらええやん』。『ほんで、今日の講師、知ってる?』『知らん!』。そこで私がその講師です、って言うわけにもいかないでしょ」


え~、一昨日の「道徳教育研究会」に引き続きまして、昨日は「長浜市教育研究発表会」が浅井文化ホールで。事例発表の後に講演がありまして、講師が奈良大学の上野誠教授。私も存じ上げなかったのですが、万葉集を中心とする古典研究者で、テレビやラジオで活躍中の先生だとか。1960年生まれといいますから、私と同い年。

ご自身が、「私はラジオ番組の評判は頗るよろしくてファンレターももらうんですけど」と言われるだけのセクシーボイスに、「テレビ番組の方には1通も来ません」とおっしゃる通りの風貌。で、冒頭のような枕で講演は始まりました。

「万葉集というのは、日本書紀や続日本紀が表向きの声、まあ朝日新聞や読売新聞だとすると、週刊誌やスポーツ新聞みたいなもので、7世紀と8世紀を生きた人間の生の声。大体、近代教科書の題材は堅くていかんですな。肩に力が入りすぎていて、大切な部分が抜け落ちている。」

と、こんな調子で話は脱線したかと思うと本論とうまく関連していたりと、実に見事な話法で進められていきまして、「日本霊異記」の世界に入っていきます。「このレジュメね、もったいっぶって言うようやけど、わ・ざ・わ・ざ、今日の講演のために作ったの。もったいぶって言うようやけど、NHKの収録前で忙しいのに、わざわざ作ったの」

とおっしゃるこの話。せっかくですので、ご紹介いたしましょう。原文ではなく、先生ご自身の訳文です。(長いよ)


大和国の添上郡、現在の奈良市東部に、通称膽保(みやす)という男がいた。この男は孝徳天皇の時代(645~654)に、大学寮の学生(がくしょう)を務めるくらいの学識を持った男だった。

これは、当時としてはたいへんなインテリということになる。当然、儒教を学び、親に孝養を尽くすということは学んでいるはずなのだが、そんなところはまるでない男だった。

この膽保の実の母親が、ある時息子の膽保に借金をした。借金というのは、稲を借り入れて、後日それに利息をつけて返すという借金である。しかし、あいにく母親は、借りた稲を返すことができなくなってしまった。

ところが、膽保は、怒って返済を迫り、実の母を責め立てたのである。しかも、膽保は床に座り、母親を地面に座らせてである。たまたまいた客人が、見るに見かねて、こう言った。

「君は教養もある人間じゃないか。なのになぜ孝養の道から外れたことをするのかい。第一、君は豊かで今困っているわけではない。母親から稲を返してもらわなくても何の不自由もないはずだ。君が大学寮で学んだ儒教には、ちゃんと孝養の道は説かれていたろう。なのになぜ孝養を尽くさないのだ―」と。

ところが、膽保はこの忠告に従わず、「余計なお世話だよ!」と言い放ったのである。そこで、まわりにいた人びとは、その母親に代わって、借金を返済して、さっさと帰ってしまったのである。



学問によって地位やお金を手にするようになった新しいタイプのエリート膽保。母に借金の返済を迫ったこの話の顛末や如何に?....(明日へ続く)
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