今更ですがそろそろどう?

テーマ:まちづくり
黒田官兵衛博覧会が始まりました。博覧会といえば3年前の「お江」、そして平成8年の秀吉博が印象的ですが、その間の平成18年に「一豊・千代博覧会」というのが開催されました。個人的にはもっとも深く関わった博覧会だったかもしれません。

この時にすずめの学校さんなどの紙芝居活動が本格化したし、水口一夫先生の脚本・振付で3幕からなる一豊・千代の創作歌舞伎も作られ、市内小中学生から出演者を募集し、浅井文化ホールで上演しました。

その時の一場面ともなりましたが、山内一豊が長浜に居た時、天正大地震が起こりその愛娘であったおよねが6歳で圧死。町が炎上し灰燼に帰した時、一豊の妻千代が偶然捨て子を見つけ、「拾(ひろい)」と名付け養育を始めたそうです。

始めは「およねの供養になる」と思い養っていたものの、だんだん情がわいてきて養子にという話も。しかし家中の手前甥がいるのに拾に跡を継がせるわけにはいかず、彼が十歳になった時京都の妙心寺に入れ学問させることにし、学費として「黄金百枚」を用立てたそうです。

拾は湘南宗化という高名な学問僧となり、土佐藩を学問藩にするに大きく貢献。山崎闇斎という大学者を育て、後にその山崎は会津藩主・保科正之に仕え同藩の学問レベルを大きく引き上げたそうな。(ちなみに大河ドラマでは三浦春馬が湘南宗化役)

てなことが、朝日新聞beの「磯田道史の備える歴史学」というコラムに書かれていたのですが、磯田先生は「土佐・会津という幕末を動かした両藩の学問水準の高さは山内夫妻の震災孤児支援と無関係ではない。地震は不運だが、人の優しさで幸運にも転化できる。震災後こそ、人の生き方が大切である」と語っておられました。

また「一豊の妻について、私は教訓じみた『馬買い』の話よりも、こちらの話の方がよほど知られるべきだ。」とも書かれていましたが、そう言えば上記創作歌舞伎の2幕目は、浄瑠璃芝居で時間も40分、ちょうど曳山で上演できるように作られていたはず。

確か夫の出世を願い、そのためには自らの命が絶たれてもよいと強く念じながらかんざしで鏡箱を叩くと中から小判がざくざくと出てくる話じゃなかったかな。ちょうど長浜で小判も出てきたことだし、そろそろ曳山上であの芝居演じられてもいいんじゃないでしょうか。

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