油買うもよし、売るもよし。楽しく老いるためのオイル日記
凡夫同士
テーマ:よもやま話
2009/09/28 09:18
「凡夫」は「ぼんぶ」と読みますが、「平凡な夫」のことではございません。ですので、おっさん連中で仲良くしましょう、という話ではございません。「凡夫」は仏教用語で、もともと修行をして悟りを開く「聖人」の反対語で、修行もできない劣った人間のことを指したようです。
さて先日来ぱんやさんが書いておられますように、昨日、安浄寺で蓮如上人五百回御遠忌法要が営まれまして、門徒として我家からは母がお参りさせていただきました。ことほど左様に、湖北は浄土真宗の非常に盛んな地域でありますが、真宗もその一系統である浄土仏教が日本人にもたらした功績は何でしょうか?
その一つが上記の「凡夫(ぼんぶ)」、つまり関西人の言い方でいえば、お互いが「アホ」な人間同士だという人間観だということを新聞で読みまして、なるほどなぁと納得してしまいました。
人間はおしなべて「凡夫」であるという考え方は、欲望、とくに自己愛を捨て去ることは人間には出来っこない、という認識から生まれたんだそうです。つまり、「アホ」なんやから「自己正当化」もするし、自分勝手なことも言うし、相手の理不尽な言動に対しても「あいつもアホなんやからしゃ~ない」と納得もできる。
これが、欧米のように自我の強い風土では、「道理が分からないのはあいつらであって、わしは正しい」という自己正当化の気持ちが強いんで、それが認められず自分が無力だと分かると「絶望」に陥るんだと。
一方、日本人は「わしが正しい」という自己正当化すら、「いや待てよ、アホの考えることやから間違ってるかもしれん」と怪しんでいるから、自分の主張が認められなくても「失望」はしても「絶望」はしないんだと。
さて、子どもが小学生の時PTAでお世話になった先生の中に、お寺のごえんさんがいらっしゃいまして、私に「この人の本は面白いですよ」と宗教学者の阿満利麿氏を紹介して下さったことがあるのですが、先日中日新聞の中にその阿満氏が上記のようなことを書いておられたのを見つけたのでした。
個々の人間は「アホ」から抜け出すことは難しいが、互いにその弱点をカバーしながら、少しは道理や正義に近づこうとするコンセンサスづくりにおいては大きな力を発揮するのではないか。「絶望」の正体を知っていればこそ、次のステップが見える。「凡夫」は現代のような「末世」だからこそ有効な人間観ではないだろうか。
「絶望の正体」という題のそのコラムは、そのように結ばれておりました。
さて先日来ぱんやさんが書いておられますように、昨日、安浄寺で蓮如上人五百回御遠忌法要が営まれまして、門徒として我家からは母がお参りさせていただきました。ことほど左様に、湖北は浄土真宗の非常に盛んな地域でありますが、真宗もその一系統である浄土仏教が日本人にもたらした功績は何でしょうか?
その一つが上記の「凡夫(ぼんぶ)」、つまり関西人の言い方でいえば、お互いが「アホ」な人間同士だという人間観だということを新聞で読みまして、なるほどなぁと納得してしまいました。
人間はおしなべて「凡夫」であるという考え方は、欲望、とくに自己愛を捨て去ることは人間には出来っこない、という認識から生まれたんだそうです。つまり、「アホ」なんやから「自己正当化」もするし、自分勝手なことも言うし、相手の理不尽な言動に対しても「あいつもアホなんやからしゃ~ない」と納得もできる。
これが、欧米のように自我の強い風土では、「道理が分からないのはあいつらであって、わしは正しい」という自己正当化の気持ちが強いんで、それが認められず自分が無力だと分かると「絶望」に陥るんだと。
一方、日本人は「わしが正しい」という自己正当化すら、「いや待てよ、アホの考えることやから間違ってるかもしれん」と怪しんでいるから、自分の主張が認められなくても「失望」はしても「絶望」はしないんだと。
さて、子どもが小学生の時PTAでお世話になった先生の中に、お寺のごえんさんがいらっしゃいまして、私に「この人の本は面白いですよ」と宗教学者の阿満利麿氏を紹介して下さったことがあるのですが、先日中日新聞の中にその阿満氏が上記のようなことを書いておられたのを見つけたのでした。
個々の人間は「アホ」から抜け出すことは難しいが、互いにその弱点をカバーしながら、少しは道理や正義に近づこうとするコンセンサスづくりにおいては大きな力を発揮するのではないか。「絶望」の正体を知っていればこそ、次のステップが見える。「凡夫」は現代のような「末世」だからこそ有効な人間観ではないだろうか。
「絶望の正体」という題のそのコラムは、そのように結ばれておりました。