寺脇研さん

テーマ:よもやま話
寺脇研。この名前を聞くとほとんどの人が「ゆとり教育の戦犯」として思い浮かべることだろう。しかし、彼はゆとり教育を示した新学習指導要領を決めるプロセスに最後まで関わってはいない、つまり担当として責任を負う部署の一員ではなく、その卓越したPR能力を買われ、いわば広告塔として働かされた、というのが実情のようだ。

先月より、教育委員会から教育委員に対して「内外教育」という教育専門誌のコピーが届くようになったのだが、9/4号に、当の寺脇研氏が「教育委員会の強化こそ」という題で寄稿されていた。少し長いがそのまま紹介する。


『大津市の「いじめ自殺事件」を機に「いじめ問題」に関する報道や論評が氾濫している。もちろん、中学生が自殺に追い込まれた事実は何より重く受け止めなければならない。

子どもが学校でのいじめによって命を自ら絶つなど断じてあるまじき事態だ。事件と直接関係のない私自身を含め、この社会に暮らす全ての大人が、そのことを真摯に受け止めて自分の無力を恥じ、責任を痛感しなければならないと思う。

しかし、報道や論評の場で行なわれているのは犯人捜しや関係者批判ばかりである。そこに感じ取れるのは、日本の大人全体の「不寛容な意識」だ。これこそ、学校のみならずあらゆる場でいじめが起きる大きな要因ではないのか。誰かを犯人にしてたたく社会である限り、子どもの世界でも同じことが起きる。子どもは、大人の背中を見ている。

今回は、教師や教育委員会まで犯人扱いである。確かに、対応に適切を欠く点があったのは否めないのだろう。それにしても今回の教師批判、教育委員会批判は、これまでの同種事例と比べて度を超している。ネットの普及ということもあろうが、社会の不寛容化が進んでいるのが心配だ。違いを認め、あらゆる人と共生していこうとする寛容さこそがいじめを減らしていくのだけれど。

その一方で、大津市や大阪市の人気者市長が教育委員会任せだからこんな体たらくなのだと、教育委員会不要論を唱え衆目を集めている。市長が直接教育行政を行えばいじめも自殺もなくなるって?それなら誰も苦労しない。

いじめゼロなんて理想にすぎず、常にいじめが起こりうる状況の中で、子どもの命を守ることは、学校、家庭、地域の教育における至上命題である。学校教育、社会教育の専門組織である教育委員会の奮起なくしてこの命題は果たせない。教育委員会をなくすのでなく、逆に予算、人員、人事面で強化することこそ首長の責務ではないのか。文部科学省も臆することなく直言してやればいいのに・・・・。』


教育委員会の強化という主張に対する賛否はともかく、氏が指摘する「社会の不寛容化」は正鵠を射ているように思う。実は曳山文化協会伝承委員会では平成16年に、当時文化庁文化部長だった彼を「市民曳山まつり講座」の講師に招いている。

「経済的には失われた10年と言われているが、逆に文化的には実りある10年だった」という氏の言葉が印象に残っている。東日本大震災後、多くの若者が現地でボランティア活動をする姿に「そろそろ『ゆとり』の勝利宣言をしてもいいくらいだ。そんなこと言うと、また批判を浴びるかな」とも。(朝日新聞be「逆風満帆」より)

戦後の詰め込み教育のアンチテーゼとして生まれた「ゆとり教育」。失敗だったと闇雲に切り捨てるのではなく、そこからジンテーゼとしての新教育法を模索することが求められているのではないか。

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