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ホームページをリニューアル後

テーマ:お店の情報(イベント等)や仕事のお話
4月11日にホームページをリニューアルしてから10日。
現在のメインホームページは www.natural-sleep.com で ミラーと古いホームページを www.sleep-natura.jpに置いている。

ホームページビルダー15にはアクセス解析をする機能が付いているし、Googleにはウェブマスターツールという、検索クエリの状況や表示順位を見ることができる機能があるので、ここ1週間はその状態をモニタしていたんだけど結構面白い。もともとあった古いホームページは下位のディレクトリに移ってしまったが、結構検索上位にでるキーワードがある。

例えばGoogleで「寝具の選び方」とやるとうちのページが1番目に出てくる。Yahooも同じ。しかしながら、ここで表示されるファイルは古いものなので、そちらへ誘導するように古いファイル名を残しながら誘導するようにしてやらなければならなかったりする。

ヒットの多いキーワードは自分のサイトの入口になるから、ページを呼んでもらえるように工夫が必要だ。

まだ1週間ほどだが、結構表示は上がっている。ヒットも増えてきた。もっとも同じ内容のものが入っているのに、2つのドメインではずいぶんと違う結果になるのも面白い。

iPhone用も作ってみた。

こうやっていじくっている間にもSEO対策の会社からの電話はよくかかってくるなぁ。いくら外部リンクを増やしたとしても、最終的にはコンテンツが勝負である。

月末までがんばってみよう。

パソコン事始(4) VISICALC と SCRIPSIT

テーマ:コンピュータ
回顧録その4

表計算ソフトの元祖ともいえるVISICALC(Visible Calculatorを由来とするらしい)は最初AppleⅡに作られて爆発的に売れた。その後1980年にTRS-80用が発売された。売価はたしか40000円。

visicalc

これはAppleⅡ用の画面で、TRS-80だと64×16行なので

visicalc2

/を入れてコマンドキーを押すインターフェイスはこれが原点か・・・

卒業後名古屋の会社に丁稚奉公として就職した後だと思う。それまではバイトと、パッチ当ての特権でいろんなソフトはタダでコピーして使っていた(あのころは今よりもっと鷹揚だった)けど、これとBASICコンパイラとマクロアセンブラは購入した。もっとも名古屋へ移っても、金を持っている医者の先生がアメリカから輸入したソフトのパッチを当てるという作業は相変わらずだったけど。

プログラムという作法なしに、縦横計算がその場でリアルタイムに計算・表示されるのにはびっくりした。表計算という新しいプラットフォームができたのだ。今思い返しても、現在EXCELで通常使っているような機能は当時とかわらないと思う。A1,B2といったセルの名前の付け方も同じである。このVISICALCを使って、自分がルートセールスするお客さんの実績表や予算表を作っていた。

学生時代のバイト先で顧客管理プログラムなるものをBASICで作ってみたけれど、実際のところ紙の住所録をコンピュータに載せただけという程度のものだった。VISICALCのように、データを加工して分析するというツールの出現は、ソフトウェアのあり方を大きく変えたと思う。VISICALCはその後Lotus1-2-3に吸収される。

同時期にSCRIPSITという、これもアメリカ製の英文ワープロソフトを使い始めていた。まだ日本語はカナ文字だけだったから、文章作りには使えない。日本語ワープロは、日本語タイプと同様に漢字の一覧から選ぶというスタイルのものが出始めたころだと思う。英文だが、ワードラップやタブ、センタリングなど一通りの機能は揃っていた。当時、ソフトウェアのマニュアルはほとんどが英文だったし、自分で作ったソフトウェアの仕様書やマニュアルも英文で作っていたので十分だった(カナ文字による仕様書では読みにくくて役割を果たせなかった)。

パソコンがBASICでプログラムを組むという初期の段階から、仕事のためにアプリケーションを使い始める時代の走りであったように思う。

パソコン事始(3) microPASCAL

テーマ:コンピュータ
回顧録その3

1979年の暮れに大学も卒業近くになって卒論に追われていた頃、アスキー編集部の宮崎さんから電話があって、「実は整数型言語としてmicroPASCALというのがあるんですけど、これの移植をやりませんか」という話。PASCALというのは、プログラミング技法をちゃんと明快な手続きにして読みやすくするために作られた構造化プログラミング言語で、BASICのようにサブルーチンの中で元のメインプログラムへジャンプGOTOするなんて、トリッキーなプログラミングは許されないが、サブルーチンの中で自分自身を呼び出す再帰的呼び出しが可能であるのが特徴だ。

わかりやすいプログラムを書こうという流れで注目を浴びていた言語だ。パソコンにはUCSD(カリフォルニア大学サインディエゴ校)が仮想言語P-systemをベースに実装していた。今で言うとJavaのようなものだろう。
USCD-PASCAL

その頃は一人前にプログラムを作れるようになっていたので、拡張コマンドも含め移植作業は比較的に容易に済んだ。これは1980年5月号に載せてもらっている。

TRS-80という8080ベースでアメリカのマシンを使うというのは、結構言語環境が恵まれていた。1983年時点で使うことができたプログラミング言語はBASIC,BASICコンパイラ,FORTRANコンパイラ、COBOLコンパイラ、UCSD-PASCAL、FORTH、Adaに加え、当時UNIX記述言語として注目され始めたCも使えるというかなり贅沢な環境だった。

しかし、BASICにせよFORTRANにせよ、LP(線形計画法)や売上データの集計や百分率の計算などの縦横演算は、配列変数を使ってプログラムをする必要があった。
その概念をごろっと変えてしまったのが1980年ぐらいに登場したVISICALCの登場だ。表計算ソフトの原点ともいえるプログラムである。VISICALCとの出会いは衝撃的だった。

パソコン事始(2) 卒論をパソコンで

テーマ:コンピュータ
回顧録の続き2

GAME-Z80が本に載って調子に乗ったのか、機械語の勉強を必死になって覚え、BASICインタプリタの中身を解読しては、プログラムの作り方を覚えていった。モニタプログラムやTRS-80では実装されていなかったスクリーンエディタなどの開発を行なっていた。

大学4年になって、クラブ(洋弓部)も引退し・・・ということで神戸の星電パーツでアルバイトを初めた。今では無いが、三ノ宮の星電社の裏通りのビルでアマ無線や電子パーツの販売をしていた。その4階がマイコン売場。比較的ヒマで、日立のベーシックマスター、シャープのMZ-80K、APPLEⅡ、PET2001といろんなマシンで遊べたのも良かった。Rolandのシンセをシーケンサーで制御していたのも懐かしい。

なにより、当時高価なドットプリンタを使わせてもらえたのはありがたかった。趣味と実益を兼ねたバイトだが、バイト代はマイコンに費やされ、TRS-80も拡張インターフェイスやミニディスクを増設することになる。卒業間際にようやく沖電気がOEMしていたドットプリンタを備える。

さて、4年も終わり頃卒論の準備となる。テーマは「コンピュータシミュレーションによる待ち行列問題の解決」
パラメータを少しずつ変えた200のモデルを作って、500ユニットのシミュレーションを行なう訳で、もともとFORTRAN用に作っていたプログラムをBASICに書き換えて実行する。今のマシンならあっという間に終わるのだけど、当時は非力だから1モデルに3時間ぐらいかかってしまう。これでは卒論提出に間に合わない。

都合良くバイト先にあったBASICコンパイラを使って(おいおい)機械語に変換すると30分ほどで済み、それでも都合1週間ぐらい動かし続けただろうか、200ページの論文だが、半分は結果のプリントアウトである。多分文系で卒論にパソコンを使ったのは初めてじゃないかと密かに思っているのだけど。

バイト先にはBASICコンパイラだけでなく、エディタアセンブラ、CP/M、UCSD-Pascalなど、Diskベースで動く先進的なアメリカのソフトが入ってきていたのだけど、当時カナ文字バージョンにモディファイされたTRS-80ではうまく動かなかった。
そこで、中身を解析して使えるようにソフトウェアにパッチを当てるのが大学卒業間際の仕事だった。おかげで、そういったソフトを勝手に使うことが出来たのである。

パソコン事始(1) TRS-80

テーマ:コンピュータ
従兄弟のブログ読んだり、今日はCLAYさんの記事見て書いて見る気になった、私のパソコン事始という回顧録。

最初に買ったのは タンディラジオシャックのTRS-80というマシン。当時はマイコンと言った。1978年大学3年の秋。
TRS-80モデル1

当時APPLEⅡ、PET2001とともに御三家といわれたマシン。NECのPC8001が出るのは、その翌年。前の2つが6502という石を積んでいるが、こちらは現在のx86の元祖であるインテル8080の上位互換だったザイログZ-80A。1.77MHzでドライブしている。メモリは16KバイトでNECのμPD416CというセラミックパッケージのD-RAM。ファームウェアはマイクロソフトのレベルⅡBASIC。

APPLEⅡはあこがれの的だったが、高かった。PETはキーボードがちゃちかった。TK-80のBASIC STATIONあたりも食指を伸ばしたのだが、TRS-80にした最大の理由は倍精度演算ができたから。

当時学部のミニコン使って、FORTRANでコンピュータシミュレーションなんかやっていたので、有る部分で倍精度が欲しかった。将来役に立つとかなんとかリクツを付けて親父から金をせしめた記憶がある。マイコンやっているやつは工学部なんかのハード屋が多かったんだが、私は経営学部でもっぱらソフト屋。これはその後もかわらない。

買ってすぐ入れたのが、Altair用8KBASIC用に書かれたスタートレック。メモリがきつかったのか、スパゲティボウルのようなプログラムだが、なかなか勉強になった。プログラムはカセットテープに記憶する方式で、結構エラーがでたんだよね。

インベーダーゲームが流行っていたころなので、BASICでゲームを書き始めたのだけど、インタープリタ方式というプログラムを逐次解釈して実行するという当時の主流方法では速度が出ない(今だとJavaがそうだね)。そこで手を出したのがアセンブラによるマシン語と、GAMEと呼ばれた整数型の高速言語。GAMEは大西さんという方がVTLという簡易言語を拡張して6800用に書かれたものを、8080に移植(たしかTK80用)した記事が雑誌ASCIIに載っていた。

そこで、BASICで逆アセンブラを作って中を解読し、Z80の相対ジャンプ命令などを使ってリライトしてTRS-80に移植したのがGAME-Z80。まだ幼稚な出来上がりだったが、ASCIIに電話したら早速載せますという話で、1979年の2月号に載せてもらった。当時の副編集長が後に塚本さんらとインプレスを作った宮崎さんで、下宿から何回か電話して打ち合わせした記憶がある。

このGAME-Z80はその後、シャープのMZ-80やNECのPC8001に移植された(ので、テープアスキーの版権料がもらえた、結構な副収入だった)
1年も経つとプログラミングもスマートになり、GAME-Z80は拡張命令やスクリーンエディタの実装、全ソースの書き換えやコンパイラの実装などを行なってVER2.3まで開発を行なった。(手元には残っていない)

ここから、ソフト屋としての人生が始まったのだ。
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