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ドイツのオタク、長浜へ

テーマ:まちづくり
昨晩は北びわ湖リゾートのバイキングへ

ドイツには(日本にも)独日協会といって、民間交流の団体があるのだが、その独日協会のツアーが長浜に来られるというので歓迎のレセプション。昨年のアウグスブルグ市民訪問団のメンバーにも声がかかった。その時もアウグスブルグの独日協会からレセプションいただいたので・・・・ドイツからのツアーは25名ぐらいか?今年は日独交流150周年だそうだ。

当初は70名ほどだったが、原発事故でキャンセルが大幅に出た模様。ドイツは緑の党とかあって、昔から原発にセンシティブだ。逆にそれをはねのけて来たメンバーは生粋の日本好きなんだろう。
隣にすわったミュンヘンのテレビ局の人は「私はミスター抹茶と呼ばれている」と自己紹介したぐらいだから。
アウグスブルグの市民功労章をもらった馬淵さんに、原発事故以降「日本脱出してドイツにきなさい」というメールが来たそうだから、向こうの雰囲気ってそんな感じなんだろうね。

独日協会レセプション

私のテーブルの人は、そのおっちゃん(といっても息子が21だから同年ぐらいか)とシュトットガルトから来た人と、結構高齢のボンの大学の教授とその夫人。

片言の英語とドイツ語がちゃんぽんで、交流らしきものを行い、おみやげやバッジを貰ってバイバイ。
というところだが、なんせ乾杯までが1時間半ぐらいかかる。まぁこんなもんか。

市役所のKさんが、これもらっちゃったと見せてくれたのが、ドイツのアニメおたくが作ったカレンダー。
最近は世界共通語になってしまったな。

ドイツのアニメおたくカレンダー。


パソコン事始(8) Windows

テーマ:コンピュータ
回顧録は今回が最終回。おつきあいいただいた方ありがとう。

AppleがMacintoshを出す前に、Lisaというマシンを出している。現物は見たことなかったが、その紹介記事を呼んだ時の「すげぇ!」という感想は覚えている。XeroxのPaloAlto研究所が元祖といわれるGUIを本格的に使ったマシン。
Lisaは商業的に失敗し、Macintoshになったわけだが、最初からAPPLEはクールな会社だった。

MicrosoftがWindows1.0を発表したのは1985年だが、私がWindowsに出会ったのは1989年Windows2.11である。Excelを使うためだったが、あんまり使い物にならなかった。9801の640*400の画面ではオーバーラップウィンドウを使おうにも実質的には意味がなかったからだと思う。同時にWindows/386も購入した。

以後3.0、3.0A、3.1、95、98、98SE、2000、XP、Vista、7と使い続けているので、比較的古いWindows使いかな? Windowsも2000が出るまでは、いろいろと手を焼かされたものだ。しょうがないけど。2.11はEMS対応で速度が遅かった。3.0になってプロテクトモードに対応したけれど、安定が悪かった。まともに使えるようになったのはWindows95か。

3.0~3.1まで、雑誌などで叩かれたためか(典型は電脳騒乱節の中村正三郎氏だが)MicrosoftもWindows95リリースの時は気合いが入っていた。ベータテスターに応募したので、ベータ版やRC版が毎週のように送ってきていたことを覚えている。Windos95のインストールディスクは信じられないかもしれないが、フロッピー版があった。3.1で15枚程度だったが、95では27枚ぐらいあったと記憶している。時々ベータ版のFDが部屋に転がっている。それでもシステムリソースがすぐになくなって再起動が必要だった。

Windows95BEER

多分レアものだと思うけど、95発売時にプロモーション用に配られたと思われるビール

Windows2000が出た時は、32bitのコードになっていて、そういった問題がほとんど解決されていたので安定性が抜群だった。XPはWindows2000のマイナーバージョンだから(2000が5.0、XPが5.1) それ以降はあまり興味がない。

振り返れば一番面白かったのは、一番苦労させられた3.0~3.1なのである。金もかかったけど、出来が悪い子ほどかわいいというではないか。WindowsはDTPの為に導入したので、WIFEフォントに何十万もかけさせられたし、ドローソフトもIllustrator7が出るまでは、Designerとか美漢Arts&Lettersとか大枚をつぎ込んでいる。

Windowsでのプログラム開発はほとんどやらなかった。というかできなかったし、そのころになると悠長にプログラムを作る余裕がなくなってしまった。VisualBASICのプロパティとメソッドで躓いてしまった、古い人間なのである。
POSがdbMAGICで書かれているので、それのモディファイをちょこちょこ(のはずだったが、元のプログラムがタコだったのでけっこう)、昨今は桐9の一括処理で済ましている。昔人間にはAccessなんかよりずっと使いやすい。

なんで布団屋やってるの?といわれるぐらい結構はまっていたし、システム開発もそれなりにやったのだけど、家業を継ぐと決めたときにパソコンは趣味と実益の範囲にすると決めたのだ。そのかわり結構道楽はさせてもらったが・・・。

そうでなければ、大学卒業後に当時出来たばかりのアスキー・マイクロソフトに入っていたかもしれない。当時はビルゲイツ信者みたいなところがあったし、そのちょっと前までアメリカでプータローしていた古川亨さん(当時アスキーに古川君のアメリカ日記というコラムがあった)がその担当をやっていたと記憶しているのだけど、そのあとマイクロソフト日本法人を作ることになる。社員も4~5人の頃だったはずだから、もしかして社長ぐらいやっていたかもしれないが、その代わり嫌味な人間になっていただろうね。

最後に少し未練を残してパソコン回顧録はおしまい。

パソコン事始(7) 98&DTPデビュー

テーマ:コンピュータ
回顧録その7 やっと98の世界に戻ってきた。これがラス前。

1989年当時、店の業務はPOSレジと、それとリンクした顧客管理と商品管理のシステムが動いていたのだけど、データの受け渡しはフロッピーディスクだったので、B4670(?)というネットワークの導入を検討し始めていた。

一方、店頭の価格表やお客様へのDMはワープロを使っていた。N5200にはLANWORDというワープロがあったけど、プリンタは16ドットのままだったので表現に限界があった。そこで、ワープロ専用機を使うことになる。最初に買ったのは東芝のRupo。当時白抜きとか斜体ができたのが画期的だった。しかし、さすがに液晶1行では使い物にならず、なぜかミノルタのワープロを使っていた。これもイラストや画像を使おうと思うと限界がある。

そこで、より表現力のあるドキュメントを作りたいということからDTPの導入を検討し始めた。最初に検討したのはマック、いやマッキントッシュ。ちょうどSiぐらいがでたところで、PageMakerやIllustratorとLaserWriterの組み合わせは実にカッコよかったが、値段も半端ではなかったし、日本語のハンドリングに問題があった。当時のマックはスクリーンフォントとプリンタフォントは別々だったせいもある。

98は当時Lotus1-2-3と一太郎3という組み合わせがスタンダードだったが、いろいろと検討した挙句に
PC9801-RA21(386DX-20MHz)+メモリ4M(EMS化)。アウトラインフォントボード付。
日本語ワープロは松、データベースは桐
DTPワープロとしてZ’s Word JG2
POP作成にハイパープリント2、のし作成に毛筆わーぷろ、両方ともアウトラインフォント装備。
画像編集ソフトとしては Kid98 ここまでがMS-DOSベース。

表計算ソフトはExcel2.1、それを使うために MS-Windows/386を採用する。386の仮想86モードを使って擬似だがMS-DOSのマルチタスクができたのだ。
Windows上のDTPソフトとしてPageMaker3
プリンタはA3でカラーが印字できるシャープのインクジェットIO-735X、B4が印字できるPostScriptページプリンタNEC PC-PR602PSという贅沢な環境を揃えることになる。いままでで一番道楽した年。

残念ながらPageMakerはその後Windows3.0になるまで使い物にはならなかったが、MS-DOSで動くZ’s WordJGはDOSベースでWYSIWYGを実現した出色のワープロだった。特にPostScriptプリンタ用にあわせて作られていたので、プリンタに入っているモリサワのリュウミン・中ゴシックのフォント+400dpiの解像度にグラデーションをあわせて使うと、今までに無い表現力が広がった。

これによって、いままで写植に頼っていたチラシづくり、店のPOPやDM、パンフレットをDTP化することになる。1990年のことだ。

パソコン事始(6) N5200/05

テーマ:コンピュータ
回顧録 その6 もう事始でもないか・・・・

1982年末、現在の店の店舗の建て替えが行われて、翌3月末をもって退社、長浜へ帰ることになった。当時うちの店ではタナックと呼ばれる顧客カードシステムを導入していたのだが、そのデータメンテナンスが十分にできないことから、帰って約半年は顧客管理と請求書作成のシステム構築をめざすことになった。

最初はPC-9801の導入を考えたのだが、当時は漢字が使えるといってもグラフィックメモリに漢字イメージをPUTするというものだったので、とてもじゃないが使い物にならない。そこで、同時期にオフコン部隊から出たN5200/05に白羽の矢が当たったのである。

8086-5MHzに128Kバイトのメモリ、8インチのディスクを2台そろえたオールインワン。7220というグラフィックコントローラを使っていて、仮想領域で1024×1024のグラフを書くことができた。アプリケーションやユーティリティもちゃんとマルチタスクで動くのはびっくりした。漢字もOSレベル(PTOS)でサポートされていた。もっとも最初は単漢字変換のみだったが・・・本体価格はたしか748,000円。

N5200

このマシンは長浜市役所など事務系で多く使われていたので知っている人も多いと思う。LANWORD,LANPLAN,LANFILEといったアプリケーションも揃っていた。

N5200を採用した理由のひとつに、インデックス付のファイルを使うことができたことがある。名前や電話番号で検索するときに、インデックス付だと早く探せるからだ。商売人にはあるまじきなのだが、私は人の顔を覚えるのが苦手なので、すぐに検索できるシステムは必須だったということもある。ただしコードはIBMのEBCDICだったので、順番が違うんだよなぁ・・・

開発言語はCOBOL85というカビの生えた言語だが、例えば画面フォームを作ってデータの入出力をするという、BASICで作ると結構複雑になるいくつかの問題があったためで、しょうがなし。丁稚奉公の会社を辞めて2ヶ月はヨーロッパへ旅行していたので、6月ぐらいから2ヶ月かけて作り始めた。最初はFD2台でコンパイルするので、シーク音がギーコギーコと鳴りっぱなし。それでも、8月ごろから稼動し始めた。というわけなので、今現在私の店では1983年までのお買い上げ記録を確認することができる。実際お買い上げから10年以上経って、あのときの布団のサイズはといったお問い合わせも少なくないので、その点ではずいぶんと役立っている。

N5200はその後、ハードディスクを付け(20Mバイトで50万円!)、カラーディスプレイになりとステップアップしてきた。世間では98が国民機といわれ始めたが、見向きもせず、レジの置き換えに伴い、N6830というPOSシステムの開発をCOBOLで行うことになり、一部の業務はLANPLUSという業務開発アプリケーションを利用することになる。

完全にオフコンの世界なので、ゲームがあろうはずもない。そこで、N5200用にマウスで遊べるスタートレックゲームを作ったが、BASICのソースで46Kバイトもある結構大掛かりなもの。これはN5200ユーザ通信にプログラムの別冊付きで載せてもらった。

パソコン事始(5) DOSに出会う

テーマ:コンピュータ
回顧録その5 だんだん話がディープになるなぁ。興味ない人は読み飛ばして。

初めてフロッピーディスクを買ったのは大学4年、バイトしながらである。定価128,000円+拡張インターフェイス75,000円は安くない。当時は1S、すなわち1Side SingleDensity 片面単密度で1枚あたり80Kバイト、フロッピーディスクも1枚1500円もした。それでも、ピーガラガラというカセット記憶に比べると格段に便利に早くなった。

AppleⅡのDISKⅡが入出力ルーチンをフックしてディスクにアクセスするのに対し、TRS-80はTRS-DOSという本格的なDOS=DiskOperatingSystemを備えていた。当時のDOSのスタンダードはDigitalResearch社のCP/MだがTRS-DOSはアーキテクチャーも機能もCP/Mに匹敵していたと思う。コマンドも初期のMS-DOSとほぼ同様で、今で言うFATシステムなどを取り入れたり、ファイルへのパスワードも2種類設定できるなど先駆的だった。

TRS-DOSも逆アセンブルしながら中身の解析を行ったのだけど、当時からディスクプリタを使ったデバイスハンドリングを行っていたとか、メモリが少なかったのでオーバーレイモジュールを必要に応じて使っていたなど、プログラマにとっては非常に勉強になる中身だった。

1980~1982年にはTRS-DOSのコンパチとしてNEWDOS/80とかLDOSといったOSがアメリカでリリースされるのだけれど、アメリカのソフトウェアの奥深さの片鱗を知ることになる。あるルールでデバイスドライバを作ってやれば、DOSの中で、いやDOS上の言語系で使えるのだ、という今では当たり前のことが新鮮だった。これ以降、自分が作るプログラムの作法が、常に標準化をするというカタチに変わった。TRS-80用のCP/Mもあったのだけれど、メモリマップ上の問題とTRS-DOSの出来のよさもあって使うことはなかった。

当時は簡単なプログラムはBASICコンパイラを使い、メモリ領域を少なくして速度を要求されるプログラムはアセンブラを使っていた。一時期FORTHという言語にはまっていたことがあるが、後のページ記述言語であるPostScript言語同様スタックを使う=逆ポーランド記法のような言語だ。

その頃になると、TRS-80も倍速(3.5MH)に改造し、ディスクも片面倍トラック倍密度1DDで320Kバイトまで使えるようになっていたが、1982年 時代は16bitマシンの夜明、日本ではPC-9801が、アメリカではIBM-PCが発売されるのである。
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