パソコン事始(7) 98&DTPデビュー
テーマ:コンピュータ
2011/04/22 20:43
回顧録その7 やっと98の世界に戻ってきた。これがラス前。
1989年当時、店の業務はPOSレジと、それとリンクした顧客管理と商品管理のシステムが動いていたのだけど、データの受け渡しはフロッピーディスクだったので、B4670(?)というネットワークの導入を検討し始めていた。
一方、店頭の価格表やお客様へのDMはワープロを使っていた。N5200にはLANWORDというワープロがあったけど、プリンタは16ドットのままだったので表現に限界があった。そこで、ワープロ専用機を使うことになる。最初に買ったのは東芝のRupo。当時白抜きとか斜体ができたのが画期的だった。しかし、さすがに液晶1行では使い物にならず、なぜかミノルタのワープロを使っていた。これもイラストや画像を使おうと思うと限界がある。
そこで、より表現力のあるドキュメントを作りたいということからDTPの導入を検討し始めた。最初に検討したのはマック、いやマッキントッシュ。ちょうどSiぐらいがでたところで、PageMakerやIllustratorとLaserWriterの組み合わせは実にカッコよかったが、値段も半端ではなかったし、日本語のハンドリングに問題があった。当時のマックはスクリーンフォントとプリンタフォントは別々だったせいもある。
98は当時Lotus1-2-3と一太郎3という組み合わせがスタンダードだったが、いろいろと検討した挙句に
PC9801-RA21(386DX-20MHz)+メモリ4M(EMS化)。アウトラインフォントボード付。
日本語ワープロは松、データベースは桐
DTPワープロとしてZ’s Word JG2
POP作成にハイパープリント2、のし作成に毛筆わーぷろ、両方ともアウトラインフォント装備。
画像編集ソフトとしては Kid98 ここまでがMS-DOSベース。
表計算ソフトはExcel2.1、それを使うために MS-Windows/386を採用する。386の仮想86モードを使って擬似だがMS-DOSのマルチタスクができたのだ。
Windows上のDTPソフトとしてPageMaker3
プリンタはA3でカラーが印字できるシャープのインクジェットIO-735X、B4が印字できるPostScriptページプリンタNEC PC-PR602PSという贅沢な環境を揃えることになる。いままでで一番道楽した年。
残念ながらPageMakerはその後Windows3.0になるまで使い物にはならなかったが、MS-DOSで動くZ’s WordJGはDOSベースでWYSIWYGを実現した出色のワープロだった。特にPostScriptプリンタ用にあわせて作られていたので、プリンタに入っているモリサワのリュウミン・中ゴシックのフォント+400dpiの解像度にグラデーションをあわせて使うと、今までに無い表現力が広がった。
これによって、いままで写植に頼っていたチラシづくり、店のPOPやDM、パンフレットをDTP化することになる。1990年のことだ。
1989年当時、店の業務はPOSレジと、それとリンクした顧客管理と商品管理のシステムが動いていたのだけど、データの受け渡しはフロッピーディスクだったので、B4670(?)というネットワークの導入を検討し始めていた。
一方、店頭の価格表やお客様へのDMはワープロを使っていた。N5200にはLANWORDというワープロがあったけど、プリンタは16ドットのままだったので表現に限界があった。そこで、ワープロ専用機を使うことになる。最初に買ったのは東芝のRupo。当時白抜きとか斜体ができたのが画期的だった。しかし、さすがに液晶1行では使い物にならず、なぜかミノルタのワープロを使っていた。これもイラストや画像を使おうと思うと限界がある。
そこで、より表現力のあるドキュメントを作りたいということからDTPの導入を検討し始めた。最初に検討したのはマック、いやマッキントッシュ。ちょうどSiぐらいがでたところで、PageMakerやIllustratorとLaserWriterの組み合わせは実にカッコよかったが、値段も半端ではなかったし、日本語のハンドリングに問題があった。当時のマックはスクリーンフォントとプリンタフォントは別々だったせいもある。
98は当時Lotus1-2-3と一太郎3という組み合わせがスタンダードだったが、いろいろと検討した挙句に
PC9801-RA21(386DX-20MHz)+メモリ4M(EMS化)。アウトラインフォントボード付。
日本語ワープロは松、データベースは桐
DTPワープロとしてZ’s Word JG2
POP作成にハイパープリント2、のし作成に毛筆わーぷろ、両方ともアウトラインフォント装備。
画像編集ソフトとしては Kid98 ここまでがMS-DOSベース。
表計算ソフトはExcel2.1、それを使うために MS-Windows/386を採用する。386の仮想86モードを使って擬似だがMS-DOSのマルチタスクができたのだ。
Windows上のDTPソフトとしてPageMaker3
プリンタはA3でカラーが印字できるシャープのインクジェットIO-735X、B4が印字できるPostScriptページプリンタNEC PC-PR602PSという贅沢な環境を揃えることになる。いままでで一番道楽した年。
残念ながらPageMakerはその後Windows3.0になるまで使い物にはならなかったが、MS-DOSで動くZ’s WordJGはDOSベースでWYSIWYGを実現した出色のワープロだった。特にPostScriptプリンタ用にあわせて作られていたので、プリンタに入っているモリサワのリュウミン・中ゴシックのフォント+400dpiの解像度にグラデーションをあわせて使うと、今までに無い表現力が広がった。
これによって、いままで写植に頼っていたチラシづくり、店のPOPやDM、パンフレットをDTP化することになる。1990年のことだ。
パソコン事始(6) N5200/05
テーマ:コンピュータ
2011/04/22 00:40
回顧録 その6 もう事始でもないか・・・・
1982年末、現在の店の店舗の建て替えが行われて、翌3月末をもって退社、長浜へ帰ることになった。当時うちの店ではタナックと呼ばれる顧客カードシステムを導入していたのだが、そのデータメンテナンスが十分にできないことから、帰って約半年は顧客管理と請求書作成のシステム構築をめざすことになった。
最初はPC-9801の導入を考えたのだが、当時は漢字が使えるといってもグラフィックメモリに漢字イメージをPUTするというものだったので、とてもじゃないが使い物にならない。そこで、同時期にオフコン部隊から出たN5200/05に白羽の矢が当たったのである。
8086-5MHzに128Kバイトのメモリ、8インチのディスクを2台そろえたオールインワン。7220というグラフィックコントローラを使っていて、仮想領域で1024×1024のグラフを書くことができた。アプリケーションやユーティリティもちゃんとマルチタスクで動くのはびっくりした。漢字もOSレベル(PTOS)でサポートされていた。もっとも最初は単漢字変換のみだったが・・・本体価格はたしか748,000円。
このマシンは長浜市役所など事務系で多く使われていたので知っている人も多いと思う。LANWORD,LANPLAN,LANFILEといったアプリケーションも揃っていた。
N5200を採用した理由のひとつに、インデックス付のファイルを使うことができたことがある。名前や電話番号で検索するときに、インデックス付だと早く探せるからだ。商売人にはあるまじきなのだが、私は人の顔を覚えるのが苦手なので、すぐに検索できるシステムは必須だったということもある。ただしコードはIBMのEBCDICだったので、順番が違うんだよなぁ・・・
開発言語はCOBOL85というカビの生えた言語だが、例えば画面フォームを作ってデータの入出力をするという、BASICで作ると結構複雑になるいくつかの問題があったためで、しょうがなし。丁稚奉公の会社を辞めて2ヶ月はヨーロッパへ旅行していたので、6月ぐらいから2ヶ月かけて作り始めた。最初はFD2台でコンパイルするので、シーク音がギーコギーコと鳴りっぱなし。それでも、8月ごろから稼動し始めた。というわけなので、今現在私の店では1983年までのお買い上げ記録を確認することができる。実際お買い上げから10年以上経って、あのときの布団のサイズはといったお問い合わせも少なくないので、その点ではずいぶんと役立っている。
N5200はその後、ハードディスクを付け(20Mバイトで50万円!)、カラーディスプレイになりとステップアップしてきた。世間では98が国民機といわれ始めたが、見向きもせず、レジの置き換えに伴い、N6830というPOSシステムの開発をCOBOLで行うことになり、一部の業務はLANPLUSという業務開発アプリケーションを利用することになる。
完全にオフコンの世界なので、ゲームがあろうはずもない。そこで、N5200用にマウスで遊べるスタートレックゲームを作ったが、BASICのソースで46Kバイトもある結構大掛かりなもの。これはN5200ユーザ通信にプログラムの別冊付きで載せてもらった。
1982年末、現在の店の店舗の建て替えが行われて、翌3月末をもって退社、長浜へ帰ることになった。当時うちの店ではタナックと呼ばれる顧客カードシステムを導入していたのだが、そのデータメンテナンスが十分にできないことから、帰って約半年は顧客管理と請求書作成のシステム構築をめざすことになった。
最初はPC-9801の導入を考えたのだが、当時は漢字が使えるといってもグラフィックメモリに漢字イメージをPUTするというものだったので、とてもじゃないが使い物にならない。そこで、同時期にオフコン部隊から出たN5200/05に白羽の矢が当たったのである。
8086-5MHzに128Kバイトのメモリ、8インチのディスクを2台そろえたオールインワン。7220というグラフィックコントローラを使っていて、仮想領域で1024×1024のグラフを書くことができた。アプリケーションやユーティリティもちゃんとマルチタスクで動くのはびっくりした。漢字もOSレベル(PTOS)でサポートされていた。もっとも最初は単漢字変換のみだったが・・・本体価格はたしか748,000円。
このマシンは長浜市役所など事務系で多く使われていたので知っている人も多いと思う。LANWORD,LANPLAN,LANFILEといったアプリケーションも揃っていた。
N5200を採用した理由のひとつに、インデックス付のファイルを使うことができたことがある。名前や電話番号で検索するときに、インデックス付だと早く探せるからだ。商売人にはあるまじきなのだが、私は人の顔を覚えるのが苦手なので、すぐに検索できるシステムは必須だったということもある。ただしコードはIBMのEBCDICだったので、順番が違うんだよなぁ・・・
開発言語はCOBOL85というカビの生えた言語だが、例えば画面フォームを作ってデータの入出力をするという、BASICで作ると結構複雑になるいくつかの問題があったためで、しょうがなし。丁稚奉公の会社を辞めて2ヶ月はヨーロッパへ旅行していたので、6月ぐらいから2ヶ月かけて作り始めた。最初はFD2台でコンパイルするので、シーク音がギーコギーコと鳴りっぱなし。それでも、8月ごろから稼動し始めた。というわけなので、今現在私の店では1983年までのお買い上げ記録を確認することができる。実際お買い上げから10年以上経って、あのときの布団のサイズはといったお問い合わせも少なくないので、その点ではずいぶんと役立っている。
N5200はその後、ハードディスクを付け(20Mバイトで50万円!)、カラーディスプレイになりとステップアップしてきた。世間では98が国民機といわれ始めたが、見向きもせず、レジの置き換えに伴い、N6830というPOSシステムの開発をCOBOLで行うことになり、一部の業務はLANPLUSという業務開発アプリケーションを利用することになる。
完全にオフコンの世界なので、ゲームがあろうはずもない。そこで、N5200用にマウスで遊べるスタートレックゲームを作ったが、BASICのソースで46Kバイトもある結構大掛かりなもの。これはN5200ユーザ通信にプログラムの別冊付きで載せてもらった。