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自治会でどうするか

テーマ:まちづくり
地震以後はお客さまも少ない。無理もないけどね。ちょっと一息だ。

福島大出身の虎高OGの先生が、なんとか応援したいのでというご相談があった。私も学生時代を神戸で過ごしたからその気持ちはよくわかる。まちづくり役場の前でしたら、と提案。19~21日まちづくり役場の前で募金呼びかけをされるので、皆さんご協力を。

あ、そうそう。20日と25日は三姉妹博覧会プレミアム商品券がまちづくり役場でも販売される。10,000円で11,000円+博覧会3館共通券が付く。こういう状況ではテンション上がりにくいのだけれど、だからこそ元気ださないと日本経済も弱くなっちゃうからね。

夜は自治会の副会長と自警団長に集まっていただき、安否確認の方法を協議。というのも我が町は80歳以上の高齢者が20名以上。富士山近辺の地震をみると、西進するのではないか・・・なんて思えてしまう。
いざという時に、就寝していらっしゃるおおよその場所とか緊急時の連絡先とかをちゃんと整理しておく必要があるからだ。各戸にアンケートを取ることにして、内容を自警団長にお任せした。
まさか津波はないだろうけど、地震はわからない。

まちづくりでは「コミュニティの再生」ということをしばしば語るのだけど、今回の場合は非常に重いテーマだなぁ。人口の半分を失ったコミュニティの再生ははたして可能なのか、ということを自問自答する。人類史をひもとけば、よくあるケースなのだが、それにしても再生への道程は長い。

じんとにっくで買い占めについて記事があったけど、もともとデフレ下で供給過多なのだから、一時的には不足になるだろうけど一週間とは続かないはず。面白いもので、渋滞もそうなんだけど、あるしきい値(スレッショルド)を超えると急激に変化してしまうんだね。

買い占めた人間は後で「なんでこんなに買うてもたんやろ」と思うだろう。救援物資も同じで、被災地側で必要なものと、供給されるタイミングがどうしてもずれてしまうので、必要以上に不足が強調されてしまう。今あわてて揃えておくっても、実際に配給される時には多すぎるということは神戸の時でも見られたのだ。

買い占めたい人は、あと一週間~10日ほどたてば潤沢にできるだろう。その時点で買うことは、GDPを押し上げるだろうからおすすめする。

残念ながらモノ不足による心理的ストレスは結構大きいので、勢い余分に買ってしまう=短期的には欲しい人に供給されないという、個人が最善策をとると全体として最悪になるという、ある種のゲーム理論が成り立つ訳だ。

何不自由ない環境で、こんなこと書いても説得力が無いのだけれど、昭和20年の敗戦後は本当になにもなかったの(だそう)だから。
明日は我が身と思って自戒しよう。

木之本の可能性

テーマ:まちづくり
今日は休みだが、午前中は木之本へ。

木之本の北国街道では最近商店街を法人化された。長浜の市内中心部には6つの法人化された商店街があるが、7つめとなる。
北国街道の空き店舗を利用した事業を計画化されているそうで、そのご相談+博覧会広域連携部会長としては、なんとか木之本さんに仕掛けをしていただきたいので、お伺いする。

木之本は歴史的には、湖北地方では第二の都市機能を果たしてきた。北国街道沿いには今なお昔の風情を残す店舗が多い。また山路酒造・富田酒造など酒造りをしているところ、醤油やさんなど醸造企業が多い。商工会長西村さんの店つるやさんのサラダパンは有名になったし、すし慶の鯖寿司も良い。本陣薬局さんも旧店舗は味があるし、ご商売もユニーク。菓匠禄兵衛さんもデパートでも人気だし・・・と書くとポテンシャルはかなり高い。長浜は負けているんじゃないか・・・と思わないでもない。

だから、浅井と小谷を北国脇往還沿いに北上した位置にある木之本は、博覧会後の広域観光を考えると大きなポイントになるところなのだ。

感度の良い女性を引きつけるネタは揃っている。どのようにプロデュースするか、それが地元の見せどころとなるだろう。木之本の若手や女性にぜひとも頑張っていただきたいところだ。

個人的に言えば、春にアートインナガハマin木之本をして欲しいし、長浜着物の集いなんかも木之本に合うだろうね。

つるやさんでサンドウィッチ(僕はこれが好きだ)を買って、北国脇往還沿いに小谷会場を通って、浅井会場へ。先週末は個人客が少ないとのことだが、しばらくはやむを得ないだろうね。物販会場はリニューアルして、ずいぶんと見やすくなった。

最後に浅井歴史民俗資料館へ立ち寄った。実は初めてだったのだが、鍛冶屋から移築したという七りん館は良いね。旧知のNさんにご案内いただく。結構展示は充実している。廃墟は創造性を活性化させる、という言葉に従えば人形展示どうなのかなぁ、と思わないでもないが・・・。
ボランティアの方々によって説明をしていただけるので、満足度は高いと思う。

日本沈没第二部

テーマ:よもやま話
日本沈没の読み返し、後半を一気に読む。
今回の光景をフラッシュバックするがごとき展開。物語では日本沈没までに三千万人の命が奪われるというストーリーだが、現実を千倍するだけなのだと気付くと、背筋がぞっとする。

続いて第二部を上下巻を一気読み返し。

流浪の民となった日本民族を再統合してアイデンティティを保とうとするナショナリストと、それぞれの現地に溶け込んでいこうというコスモポリタンがせめぎ合う。話のストーリーとしては面白いのだが、どこかぎごちない。

すいっとしない、その原因はエピローグの場面で歌われる「君が代」に暗示されている。そう、天皇家の扱いがすっぽり抜けているからだ。

この第二部は小松左京を中心にチームで作られたというが、おそらく過程で議論になったことだろう。しかし、彼らはあえて外したのではないかと思う。というのも、天皇家というファクターを入れてしまえば、流浪する日本民族のアイデンティティの保持といった問題は片付いてしまうからで、これでは小説として成り立たない。

日本とは、日本人とはという命題は、結局そこに行き着く訳だ。裏を読めば、わざと不完全燃焼なストーリー展開を行ない、君が代を最後に登場させて暗喩としているのかもしれない。(意地が悪い読み方だね)

となれば、今回の震災のあとのシナリオを組み立てることはできるのではないか?皇室にとっても意義有るシナリオのようにも思えるのだけど。(いたって不遜だな)

なんか、いらいらする

テーマ:よもやま話
15~16日と東京へ展示会で出張予定だったが、取りやめにする。東京にいる友人にメールをしたら、家まで32kmを歩いて帰ったとのこと。余震が続いているようである。できれば避けた方がいいとのことだった。

家へ帰ると、やはりテレビを見てしまう。しかし3日目ともなると、テレビのキャスター(FとかMとか)や評論家の口調が気になってイライラ。
あれをしなくちゃいけません、これも求められていますと次々としたり顔でしゃべるなよなぁ!
ある評論家曰く「地震から3日も経って安否の全容がはっきりしないのは、防災大国の名が泣きますよ」って、モニターで現場見てるだろ、それでも言うか。
そんなこと、みんな判っていて、現場は必死で活動を行なっているし、何も出来ない我々は祈るか、おそらくは義援金しかする術がないのだけど。

テレビに映っていた家族をおそらく全て失ったであろう少女の「おかあさん」と呼ぶ悲痛な叫びがいたたまれない。
これ以上聞きたくないのだけど、逃げてはいけないのだろう。これから、何を為すべきかを考えるためにも。

日本沈没を読みかえす

テーマ:よもやま話
久しぶりに小松左京さんの「日本沈没」を読み返してみた。

まだ半分で、第2関東大震災のくだりのところまでであるが、なかなか興味深い。

田所博士の言葉 「一つの地震によって放出されるエネルギーの最大値は、地殻の性質によって、マグニチュード8.6―5×10の24乗エルグを越えることはない。・・・・・・・これまでは、M8.6以上の地震は起こらなかったかもしれん。これまでの知識にもとづいた理論によるなら、それ以上の地震は、起こり得ない、と考えられるかもしれん。しかし――これから、過去において、一回も起こらなかったようなことが起こるかもしれない。たとえば――一単位地震体積あたり、5×10の24乗エルグのエネルギーの最大エネルギーをたくわえた地殻がいくつもならび、それが一斉にエネルギー放出をやったらどうなるか?」

この情報は1970年頃当時の情報なのかもしれないが、実際にはM8.8以上の地震が起り、M8クラスの地震が次々と起った。

こんな内容も面白い。

 ――戦前、あるいは、少なくとも明治までの日本の社会では、「家」と「世間」というものが、社会の基本単位になっていて、男は成人すると、「家」を代表して「世間」とつきあうか、あるいは「家」を出て、「世間」の中にはいって行くかした。――しかし、戦後は、この関係がまったく変わった。「家」は「核家族」にまで解体する一方、人口の増加、所得の上昇、社会内における各種組織密度の高度化、社会保障の充実、教育年限の長期化などによって、社会の「過保護状態」「高密度化」が飽和点に達し、男は、両親の庇護のもとからはなれても、「波風荒い〃世間〃に出て行く」とはいえないような状態になってきた。そのうえ、この社会の保護過剰状態に対応した、女性の社会への大量進出がある。現在では、日本の社会そのものが総体的「マイホーム化」しつつあり、男は身体的に成熟しても、生ぬるい「家庭化した社会」の中で、たくましい「成人(アダルト)」になる場を見いだせない。――あたかも、川で卵からかえり、海へ下って、広い海洋を泳ぎまわることによってたくましい「成体」になる鮭鱒類が、地形の変動などによって陸封されてしまった場合は、琵琶湖の小アユや、東北のヒメマスのように小型化してしまい、そのまま大きくなることなく一生を終えてしまうように、あるいは渡り鳥が「渡り」によって、一人前になるように、人間社会にあっても、とくに体型的精神的に特殊化のすすんだ「雄」は、「荒々しい〃外部〃」の冷たい風にあたらないと、一人前の成人になれないのではないか?――日本の若い男性が「女性化」しつつあるというのは当然のことで、「マイホーム化」した社会の中では、主役の座は女性によってうばわれつつあり、男はいつまでも、家庭の中で過保護状態で育てられた子供のように、ひよわでいつまでたっても幼児的であり、あるいは女性化するのは当然である。このままでは、男はますます小アユ化するだろう。――といって、日本社会の中は、あらゆる意味で「飽和化」「家庭化」してしまっているとすれば……新しい「世間」はもはや日本の「外」にしかないのではないか。「国家」は、かつての「家」となり、「世界」がかつての「世間」となるのである。日本人の民族としての健康のためにも、これからの日本では、国内のことは、女と老人にまかせ、男は海外に出て、自らを新時代の「世界のおとな」としてきたえ上げねばならない、云々……。

内容は40年経っても十分通用するほど興味深いなぁ。
当時はジェンダー意識はなかっただろうから、主題は「男」になっているけどね。
(最初の原作で阿部玲子がお嬢様で、最近の映画化ではハイパーレスキュー隊員だったように。彼女は第2部では国連のエージェントだ)

彼の作品は「果てしなき流れの果てに」「継ぐのは誰か」「復活の日」にしても、文明論的な問いかけをしてくるがゆえに考えさせられることが多い。

筒井康隆の「日本以外全部沈没」は純粋に楽しめるけどね。

小松左京「日本沈没」より引用
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