私の日教組時代
今日(12日)は私の日教組時代を記したいと思います。
昭和40年新卒として赴任した先で、先輩の先生から「脇阪君、組合に入ってくれるでしょう」という話がありました。当然入るべきものだと思い「はい、入らせてください」といいました。
それから昭和63年頃まで私は日本教職員組合の組合員でした。
その間武村県政誕生では県下の組合員が各支部を中心に選挙活動をしました。臨湖に武村候補が来ての集会では市内の教頭が誰が来ているのか車の中から監視をしていました。(これはその夜大問題に発展しました)
山元勉の国政選挙でも県下の組合員がそれぞれの支部を中心に活動しました。このときはカンパもあったと記憶しています。
近くでは現県会議員角川氏の最初の選挙も選挙事務所を中心に長浜市・東浅井郡の組合員が選挙活動をしました。
ストも何度かありました。55年前後以降のストはほとんど当時の長浜東中学校が拒否してきました。(ストは違法になる1分前、始業時間後29分間入るのです)理由は「子供たちに遅刻をするなと指導している者が遅刻をして今後子供たちの指導ができるのか」ということです。
当時は一つの学校がストに入らないと同じ地区の他の学校も入らないのです。従って当時長浜市立の学校はストに入ることはありませんでした。
長期休業期間中の日番(日直)廃止運動もありました。これは「日番は教師の本務ではないから管理職がしなさい」ということです。これにも真っ向から反対しました。同僚も賛同し、東中はその年の夏季休業期間中も全教師が交代で日番をしました。
従って長浜市内の小・中学校は今日まで交代で日番をしているのです。県下の他の地域は管理職がしています。しかし、私が甲良中学校に赴任した年(H8年)は夏季休業期間から全職員で分担して日番をするようになりました。
私は決して組合を否定する者ではありません。教師集団が「如何にしたら子供の心を育てられるのか、如何にしたらより学力をつけられるのか」を常に研修・研鑽する集団であれば国民は後押しするのです。
しかし実態は、“子供を再び戦場に送るな”という隠れ蓑の下で、ことごとく教育に関わる政府(文科省)案に反対し、自分たちの住みやすい環境つくりに奔走しているのです。これでは国民の後押しを得ることは出来ません。
私は広く国民の理解を得られる組合であってもらいたいと常に念じています。