嬉しい恩師のコメント
本日は嬉しいコメントがありました。10月12日の「祭り日和」の記事を見ていただいた中村憲雄先生から記事へのコメントをいただきました。
先生は中学1年のときのクラス担任で1年、2年に国語を教わりました。また斎藤茂吉の研究では第1人者で当時も短歌研究に寄稿されて私も1回だけ買って読んだ事を覚えています(難しくて1回で挫折しました)。
はっきりいって国語はあまり得意ではありませんでした(それでも漢字テストなどはあまりまちがわなかったですけど)。よく「中学生は無限の可能性を秘めている。」といわれるように記憶力は一番いいときであります。先生にいわれた事や授業でこんな事があったということは考えて見れば、たくさん覚えております。
そんな中で先生は山形県出身の斎藤茂吉がお世話になったお寺の住職の窿王(りゅうおう)和尚が後に米原の番場にある蓮華寺へ来られ、晩年の和尚を訪ねるときの話しをされました。
蓮華寺は太平記にも出てくる北条仲時らの集団自決や番場の忠太郎などでも有名ですが当時は貧乏なお寺で訪ねて来た茂吉に和尚はゆばをご馳走したそうです。今の比叡ゆばなどのようないいものではなく本当に粗末なもので私たちがしっぽくのうどんを食べるのとは全然違うものであると先生はおっしゃっていました。なぜか美しい師弟関係に感動した事を覚えています。
先生が「よくかめや旅館を覚えていましたね。」とコメントしていただいていますが、これも国語で「わかれみち」という題で教科書の差し入れ写真に北国街道と中仙道の道標がでていたときに先生がお話しになられたものです。
蓮華寺には全国各地に200近くある茂吉関係の歌碑や記念碑の中で33番目、昭和46年9月24日に除幕されたものです。
松風のおと聴く時はいにしへの
聖のごとく 我は寂しむ
という歌であります。
今思い出しましたが、先生は平成4年の皇居歌会始でも入選しておられます。これは、S酒店さんが長浜青年会議所の理事長時代にお話しされたので覚えております。
皆さん信じられないかもしれませんが、幼い頃の私は「できんぼ、いじめられっこ、病弱」でした。病弱は小学校6年のとき国立大阪病院へ入院して克服しました。それでもできんぼだと思っておりましたが中学入学時に家庭訪問で先生は母に「彼はできる、潜在能力がある子です。」とおっしゃってくださったそうです。また3学期の期末テスト期間に風邪で試験が受けられませんでした。先生は心配して私に電話を下さいました。おかげで、私はできんぼを克服、高校では柔道をしていじめられっこを克服する事が出来ました。考えれば今の私が何とかあるのも先生はじめ色々な方のおかげであります。
少年時代の思いではいくらでも出てきますね。あまり書くと回顧主義で進歩がなくなるのでこのあたりにしたいと思います。
私へのコメント通知は携帯に転送されるのですが、今日の先生からのコメントは本当に嬉しく、オーバーですが涙が出そうになりました。先生におかれましてはいつまでもお元気でご活躍いただきたいと思っております。
今日は少し感傷的でした。
コメント
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2008/10/31 22:13恩師と心の底から言える先生って忘れることできないですよね。僕は、中学時代の陸上部の監督、高畑律夫先生が一番印象的です。
熱血監督でした。 -
2008/10/31 22:26私も小・中・高それぞれに恩師と呼ぶことのできる先生に恵まれました。今あるのも本当に先生方のおかげと思える方ばかりです。ブログに対してのコメントは本当に感激でしょうね。
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2008/11/01 19:17吾一さん・油甚さんへ
恩師といっても、その深さは色々だと思います。本当に人生を左右する事に関わった恩師、人生を左右するとまで行かなくても、人格形成に関わった恩師。ただ、自分が思っていなくても温かく見守ってくれている先生はおられるんだなと思います。その先生の期待を裏切らないように、取り組んで行きたいものです。