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新しい学校名

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 湖北の2つの高校が一つになるということで、ここ数年、議論がなされています。少子化で各校の生徒も少なくなりました。私もびっくりしました。私のころは虎高の定員は315名。それが今や200人位に減っています。


 長浜北高も私のころは家政科がありましたが今はありません。全身の長浜高等女学校の流れを汲んでいたのですが、それが廃止されて数年が経っています。私の卒業した学校でないので、私にとっては何か他人事になっておりますが(ごめんなさい両校のOBの皆さん)、当事者の人たちにとっては本当に筆舌に尽くしがたい出来事なのでしょうね。


 本日のS夕刊で、O社主がS夕刊の社説で「県教委の関係者は切腹せよ。」と激しい文章で書いていました。確かに校名を「長浜北高校」にするのでは長浜高校の卒業生たちは我慢ならないでしょうね。そしてさびしいでしょうね。



 それとは別に、長浜を代表する?のだから「長浜高校」でいいのでは、長浜北高と言う名前は長浜の北にあるわけでもないしと言われます。私も知らなかったのですが、長浜北星高校が数年前に当時の長浜商工に総合科ができるために名前を変えることになり、今の名前になったと言われます。実は長浜商工の前は長浜西高校と言ったそうです。高校野球の滋賀県大会で決勝に行ったことがあるそうですがその時の名前は長浜西高校でした。それで、長浜北高校と名前が付いたらしいですね。
 北星高は長浜商業、長浜西高、長浜商工、長浜北星高と名前がよく変わっています。虎姫高も旧制虎姫中学から湖北高校虎姫学舎と言っていた頃があったらしいですね。そのころは伊香高と統合していたらしいですね。私の伯父は湖北高校の卒業生になっています。



 考えてみれば、滋賀県内に旧制中学で膳所、彦根(彦根東)、虎姫、高島、商業で長浜商業、彦根商業(今の彦根翔陽)、大津商業、工業は彦根工業、瀬田工業、農業は長浜農学校、伊香農学校?、栗田農学校(今の草津高校、湖南農業)、女学校が長浜高等女学校(長浜北高)、彦根高等女学校(彦根西高)、大津高等女学校(大津高校)になるのでしょうか?県教委の方は、これらの歴史を踏まえてかからないと、卒業生は納得しないでしょうね。


 それでも、少子化で規模が維持できないのなら仕方ないかもしれません。校名の案で「長浜開知(智)」なんてありましたが、いい名前だと思うんですけどね。


 今からでも遅くないので新しい校名で行ってほしいとS夕刊では書いていましたが、私も同感です。折角の機会なので、長浜の歴史を踏まえたようなすばらしい名前にして欲しいですね。

祖父との面会

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 本日、北の方に行く用事があり、帰りに私の祖父が校長を務めていたことがある、びわ南小学校に行ってきました。幼いころから母に聞かされておりましたが、私の祖父は「校長先生をしていた。」ということで、赴任地はいくつかあるのかもしれませんが、おじや母から聞いていたのは湖北町の小谷小学校と、大郷小学校(現・びわ南小学校)です。


 以前に小谷小学校へ行った際に校長室に頼んで入れていただいた時には残念ながら写真は掲額しておらず、名前が記された紙が貼っておりました。その時には小谷小学校の創立100周年記念誌に載っていないか見ていただきまして、残念ながら載っていませんでしたが、当時の先生方の集合写真が掲載されていて、祖父が写っていましたので、校長先生がコピーして頂き、それをいただきました。持って帰ってから、それをPDFで保存いたしました。


 本日はびわ南小学校へ着くと、「ぱんやと申しますが、実はわたくしの祖父がこの学校の校長をしていたことがあり、校長室に写真が飾ってあると思いますので見せていただくことはできませんでしょうか?」と、お願いしましたら、教頭先生?はにっこり笑って「そうですか、どうぞ。」と言っていただき、校長室に入れていただき、校長先生とお話ししながら、祖父の写真を見つけましたら、教頭先生はわざわざ写真の額を下ろしていただき、私に渡してくださいました。私もうれしくて涙が出そうになりました。そしたら教頭先生は「コピーしましょうか?」と言ってくださり、コピーしてくださいました。もちろんこれも家に帰ってからPDF保存いたしました。


 在任期間は何と1年しかないことがわかりましたが、当時の年齢を計算しますと祖父は当時47歳でした。これには校長先生も教頭先生もびっくり、「今でなら考えられない。」


 両先生とも祖父の写真を見て「なんと風格のある先生。」と言っていただきました。以前油甚さんが書かれていたように昔の校長先生は髭を生やした先生が多いですね。祖父も少しだけ髭を生やしておりました。

 校長先生によると、びわ南小学校では暗唱などをさせていて、児童がよく校長室に入ることがあるそうです。校長先生が自ら児童に接する機会を作られていることに感激いたしました。それでよく写真を児童が見るそうですが、昔の先生が勲章のようなものをつけておられたり、ひげを蓄えておられたり、何か今に近い先生とは違う感じがするのか、祖父のころの校長先生については興味深く聞かれるらしいですね。



 そこで、しばらく両先生とお話しさせていただきまして、祖父の関係したことをいろいろと話しました。祖父が速水小学校に行っていたことを話すと校長先生も最初の赴任地は速水小学校だそうです。その他にもいろいろと話しておりますと、つい長居をしてしまいました。


 両先生にお礼を言って、学校を後にしました。校長先生は「なかなか聞けない話が聞けてありがとうございました。」と言ってくださいました。

 本当は名刺を出して、しっかり名乗るべきだったのですが、今の状態では少しためらいまして、それでもこんなこと書いているのはおかしいですね(笑)。



 今日は若き頃の祖父を見て、教育者としての品格にあふれた姿に感動して、本当に力をもらいました。祖父の顔に泥を塗らないようにしっかり頑張っていきたいと思います。


 





 

大相撲とサッカー

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 昨日は、大相撲で横綱白鵬が何と13日目で残り2日間を残して大鵬の記録を抜く33回目の優勝を成し遂げました。強かったですね。これで日本生まれ(日本人とすると日本に帰化している旭天鵬がいます)の力士の優勝は、またもお預けとなりました。というか、当分ないかもしれません。平成18年初場所の栃東以来ですからもう9年ないんですね。


 白鵬の懸賞金を受け取るしぐさなどが少し問題になることがありますが、今の理事長の北の湖も負け力士に手をかけないなど言われましたし、それに朝青龍のように品格も人格も見受けられないただ強いだけの力士とは違い、横綱として日本人より日本人らしい力士ですから、だから今の大相撲が人気を取り戻し、久し振りに15日間満員御礼を記録したのでしょうね。



 そして、そのあとに行われたサッカーのアジアカップ。日本はPK戦の末、UAE(アラブ首長国連邦)に敗れました。日本が準々決勝で敗退するのは1996年の大会でクウェートに敗れて以来とのこと。あのころの日本はなぜかクウエートを苦手にしておりました。東アジアではなく中東とやるときは本当に気を付けないといけません。この大会の敗退でワールドカップに出場できても、その前年に行われるリハーサル大会を兼ねたコンフェデカップに出ることができません。アギーレ監督がいろいろ問題を抱える中で強い国と強化試合ができるのでしょうか?

 前回は日本が非公式世界チャンピオンになってタイトル防衛をずーっとしていた感があります。


 これで昨日、日本選手は外国選手の前に敗れてしまいました。


 今スポーツで熱いのは、場所も日本とは季節が逆でサッカーアジアカップも行われている豪州でテニスの全豪オープンが開かれています。4大大会の一つのこの大会で、昨年全米で準優勝した錦織が、どうなるか?優勝までは長い道のりですが頑張ってほしいものです。

またも名選手が・・・

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 昨日、大豊さんの逝去が伝えられたばかりなのに、今日は柔道をかじったものなら、誰もが知る、斉藤仁さんが亡くなられたそうです。確かに以前テレビを見て、「えらいやせたな、おかしいな。」とは思っていたのですが、がんだったそうですね。


 斉藤さんは私より一つ上。私の世代は日本柔道の重量級が強い時代でした。


 私より一つ上が、斉藤、4年上が国民栄誉賞の山下泰裕をはじめとして松井勲、吉岡剛、伊藤久雄、1年下が正木嘉美と誰を出しても世界一になれるのではないかというほど強い時代でした。


 山下さんと斉藤さんは8回戦ってすべて山下さんが勝っていますが、最後の3戦はどちらに手が上がっても(柔道では審判が勝った方に手を上げて「勝ち。」と宣言しますからこういいます)おかしくない試合でした。



 山下さんは東海大、斉藤さんは国士館大ですから全日本選手権では両大学出身者が山下さんや斉藤さんに有利になるように試合で当たったときは勝ち負けを度外視して(勝てるはずはありませんので)、相手をくたびれさせるように努力したものです。逆に身内同士なら、あっさりわざと負けていましたね。



 斉藤さんはロス五輪の96キロ超級で金メダル。ソウル五輪では日本選手唯一の金メダル。初めての日本人選手の五輪連覇でした。昭和63年、つまり昭和最後の年に全日本で優勝。けがから復帰してつかんだ栄光に日本人は勇気づけられたことでしょう。山下選手に続いて国民栄誉賞を差し上げても良かった選手でした。


 後に北京五輪で優勝した石井慧選手が「オリンピックのプレッシャーなんか斉藤先生のプレッシャーに比べたらへのツッパリにもなりません。」と言ったのは有名な話ですが、斉藤さんはアテネ五輪で日本の監督を務め多くの金メダルを獲得したことでもわかるようにすぐれた指導者でもありました。


 息子さんが2人いるそうですが二人とも蛙の子は蛙、強いらしいですね。偉大な父を超えていってほしいものです。


 今の日本柔道は斉藤さんの世代のお子さんが中には親を超える成績を収めるのが多くなっています。頑張って来年のリオ五輪、そして5年後の東京五輪でいい成績を上げて欲しいものです。


 斉藤さんのご冥福をお祈りいたします。

大豊ちゃん、さようなら。

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 先程、ネットを開けると、元・中日及び阪神で活躍した台湾出身の大豊泰昭氏(51歳)が亡くなったそうです。大豊氏は台湾の高校を出てから日本へ来て名古屋商科大学で活躍、中日職員を経てドラフトで指名されました。ドラフトの時は私も覚えております。よく打ちましたね。母国台湾の英雄と言われる王選手の一本足打法を取り入れ、一本足打法で王選手ほどではありませんでしたがよく打ちました。



 プロ野球を引退してから、中華料理店を名古屋で開業、そして私も時々お参りするのですが岐阜のおちょぼさん(千代保稲荷神社)の商店街の入り口付近に「大豊ちゃん」という店を開業していました。名古屋のお店は閉店しましたが、大豊氏が病に倒れた後も奥さんとスタッフでお店を守っておられるそうです。


 何年か前に行ったとき「大豊の店があるんや。」と言われ、行ったところ大豊氏が店頭で何か作っていました。台湾の選手は暑い国で食が細いためか、あまり大きな選手はいないのですが、やはり野球選手、大きく感じましたね。


 最近はあまり見なかったのですが、最後に見たころはだいぶ痩せていました。病気と闘っておられた大豊選手の写真が出ていましたが、そんな感じでしたね。


 野球選手というと体を鍛えているので丈夫な気がするのですが、わからないものです。

 もうおちょぼさんへ行っても大豊さんの姿が見られないのはさびしいですね。

 ご冥福を祈ります。
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長浜の大手門通りの米嘉席のところで「正しい材料、正しい方法、正しい姿勢」をモットーにパン作りに励むパン屋です。

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