ご挨拶と報告
テーマ:ブログ
2015/05/25 21:35
今日で記録が残る最後の投稿となるそうです。皆さん本当にありがとうございました。そして、この2~3年は色々と御心配をおかけいたしました。
偉大なる先輩くんさんから「パン屋さんでない、ぱんやさん。」と書かれてしまいましたが(笑)、信じていた者たちに嵌められたこととはいえ、私の不徳の致すところと言うにはあまりにも大きな代償を払う行動を起こしてしまい、2年前の今ごろは本当にこの世を去ろうかとも考えていました。
よく酷いことや命が縮むようなことが起こると、「わるなる!」と言いますが、当時は身体も本当に悪くなり、糖尿病に。2年前の7月末、ちょうど彦根東高校の甲子園初出場に沸き立つ頃に入院することになりました。当時の血糖値は530、ヘモグロビンA1Cは14.6。生きているのが不思議なくらいでした。
退院後も、この大きすぎる問題に相談相手もなく、何ともできず、「俺ってこんなにあほやったんか。」と苦しんでいた頃、妹たちから「兄貴しっかりせい。」と言われ、商工会議所などに相談。まちの人たちからの温かい声などがあり、おかげで金融機関や建設会社も協力・支援してくれ、ビルは完成。引渡しを受けて、無事会社は存続しております。
これも、いろんな方の支援がありましたが、その中でも入院時、皆さんから頂いた温かいコメント、これは今でも残してありますが、これがなければ、今の私はなかったと思います。
とはいえ、会社は本業であるパン屋をすることは金銭面でも、そこまでは支援を受けることができませんので、休業(実質廃業)状態となってしまいました。
パン屋を営業再開することができず、私と家内は他所に仕事をしなければならなくなりました。それでも私は歳を食っていて、そんなにすごい能力があるわけでもありませんので勤め先などあるわけがありません。
中小企業家同友会の知り合いのつてで、彦根市の河瀬にある社会福祉法人の共同作業所で臨時職員として障害を持つ仲間と焼き菓子の製造にかかわりました。そこで私は生まれて初めて、人に使われ、年下の上司から叱られて、人の気持ちが少しはわかるようになりました(と思います)。年下の上司に人間的にも否定されたときは悔しくて悔しくてたまりませんでした。自分が悪いんですが、他人の置かれた状況などを理解しようとせずにやみくもに叱ったりしていた以前の私。本当に当時の社員たちには申し訳なかったなと思い知らされた次第です。
契約が切れた今年の1月、送別会で泣きながら別れを惜しんでくれる障害を持った仲間達を見て、人の役に立てることの素晴らしさ、商売は社会を幸せにするものでなければならないということを強く感じた次第です。実際に私が社長として掲げていた「幸せ空間一助業」というものを実現するために本気で努力してこなかった、口だけで偉そうに言っていた報いがこれだったのかなと思い知らされました。
今は、同じ社会福祉法人の別組織でパンの製造に関わらせていただいています。しかし年齢が行っていて正式職員ではありません。私が今までやってきたことは大したものではないですが、できる限り生かして何か社会にお役にたてるものを作っていきたいと考えています。
勤めていても、年齢的に定年というものがあり、今の私は、定年を無事迎えることは許されません。会社を存続させて、借入を返していかねばなりません。自分が皆様に生かせていただいてこんなことを言う資格はないのですが、自分のできることを活かして何か社会を幸せにできるものを作って、それを生業にしていくことで自分も生きていきたいと思います。
会社は倒産したと思っておられる方もいるようですが、お蔭様で皆様の力強いご声援のおかげで存在しています。これは私よりも亡父のおかげで皆様からの支援があるのだと思っています。
授業料というにはあまりにも大きな代償を払ってしまった私ですが、これを本当に無にすることなく、以前とは違う形にならざるを得ませんが事業の本業を再開できるように頑張っていきますのでこれからもどうぞよろしくお願いいたします。
コブログ閉鎖に当たっての最後のご挨拶と、ご報告とさせていただきます。暗い報告で申し訳ございません。ありがとうございました。
次のブログはじげブロになると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
偉大なる先輩くんさんから「パン屋さんでない、ぱんやさん。」と書かれてしまいましたが(笑)、信じていた者たちに嵌められたこととはいえ、私の不徳の致すところと言うにはあまりにも大きな代償を払う行動を起こしてしまい、2年前の今ごろは本当にこの世を去ろうかとも考えていました。
よく酷いことや命が縮むようなことが起こると、「わるなる!」と言いますが、当時は身体も本当に悪くなり、糖尿病に。2年前の7月末、ちょうど彦根東高校の甲子園初出場に沸き立つ頃に入院することになりました。当時の血糖値は530、ヘモグロビンA1Cは14.6。生きているのが不思議なくらいでした。
退院後も、この大きすぎる問題に相談相手もなく、何ともできず、「俺ってこんなにあほやったんか。」と苦しんでいた頃、妹たちから「兄貴しっかりせい。」と言われ、商工会議所などに相談。まちの人たちからの温かい声などがあり、おかげで金融機関や建設会社も協力・支援してくれ、ビルは完成。引渡しを受けて、無事会社は存続しております。
これも、いろんな方の支援がありましたが、その中でも入院時、皆さんから頂いた温かいコメント、これは今でも残してありますが、これがなければ、今の私はなかったと思います。
とはいえ、会社は本業であるパン屋をすることは金銭面でも、そこまでは支援を受けることができませんので、休業(実質廃業)状態となってしまいました。
パン屋を営業再開することができず、私と家内は他所に仕事をしなければならなくなりました。それでも私は歳を食っていて、そんなにすごい能力があるわけでもありませんので勤め先などあるわけがありません。
中小企業家同友会の知り合いのつてで、彦根市の河瀬にある社会福祉法人の共同作業所で臨時職員として障害を持つ仲間と焼き菓子の製造にかかわりました。そこで私は生まれて初めて、人に使われ、年下の上司から叱られて、人の気持ちが少しはわかるようになりました(と思います)。年下の上司に人間的にも否定されたときは悔しくて悔しくてたまりませんでした。自分が悪いんですが、他人の置かれた状況などを理解しようとせずにやみくもに叱ったりしていた以前の私。本当に当時の社員たちには申し訳なかったなと思い知らされた次第です。
契約が切れた今年の1月、送別会で泣きながら別れを惜しんでくれる障害を持った仲間達を見て、人の役に立てることの素晴らしさ、商売は社会を幸せにするものでなければならないということを強く感じた次第です。実際に私が社長として掲げていた「幸せ空間一助業」というものを実現するために本気で努力してこなかった、口だけで偉そうに言っていた報いがこれだったのかなと思い知らされました。
今は、同じ社会福祉法人の別組織でパンの製造に関わらせていただいています。しかし年齢が行っていて正式職員ではありません。私が今までやってきたことは大したものではないですが、できる限り生かして何か社会にお役にたてるものを作っていきたいと考えています。
勤めていても、年齢的に定年というものがあり、今の私は、定年を無事迎えることは許されません。会社を存続させて、借入を返していかねばなりません。自分が皆様に生かせていただいてこんなことを言う資格はないのですが、自分のできることを活かして何か社会を幸せにできるものを作って、それを生業にしていくことで自分も生きていきたいと思います。
会社は倒産したと思っておられる方もいるようですが、お蔭様で皆様の力強いご声援のおかげで存在しています。これは私よりも亡父のおかげで皆様からの支援があるのだと思っています。
授業料というにはあまりにも大きな代償を払ってしまった私ですが、これを本当に無にすることなく、以前とは違う形にならざるを得ませんが事業の本業を再開できるように頑張っていきますのでこれからもどうぞよろしくお願いいたします。
コブログ閉鎖に当たっての最後のご挨拶と、ご報告とさせていただきます。暗い報告で申し訳ございません。ありがとうございました。
次のブログはじげブロになると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。