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あっぱれ大往生

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 8月25日の夜、驚く知らせが入ってきました。
以前、大往生というタイトルで2回書いたことがあるのですが、その中で、私の母の二人の叔母の一人のことを書いていたと思います。

 あれから数年がたちましたが、母のもう一人の叔母さんも、とうとう亡くなられました。


 本日の新聞のお悔やみ欄にも載っておりますが、なんと109歳、享年だと110歳になります。


 高齢化社会になって100歳を超える人は珍しくなくなりました。しかし、きんさんぎんさんのように元気でしゃきしゃきしておられる方は残念ながら多いとは言えません。それでも、さすがに105歳を超えるとなるとある程度しっかりした感じでないと難しいようです。



 母の叔母さんは1905年(明治34年)生まれ。4年前に100周年を迎えた長浜北高校(当時は長浜高等女学校)の生存者の最高齢OGとしてでしょうね、百周年記念誌にメッセージが載っていました。なんと大正11年の卒業というのですから恐れ入ります。このときに、白寿を迎えられた写真が掲載されていましたが、とても99歳とは思えませんでした。せいぜい80歳かなと思います。



 叔母さんは90歳半ばまで木之本でご主人が亡くなられた後も一人で酒屋をしておられました。今は横浜に住んでおられました。遺体は横浜で納棺され、木之本まで運ばれて葬儀を営まれたそうです。これも木之本のみなさんへの感謝の意を伝えたいということだそうです。


 納棺に立ち会った叔父や葬儀に参列した母の話によると、本当にきれいな観音様のようだったということです。1週間ほど前まで話をしておられ出かけられたときに撮った写真が遺影になっているそうですが、本当になくなる寸前のお姿が遺影になるというのも、普通なら痩せこけて、もう少し元気な時の写真をとなるのですが、そういうことがなかったのも、あっぱれだったと思います。


 百歳越えの長寿者は105歳以上で超百寿者、110歳以上でスーパーセンテナリアン(SC)と言うそうです。残念ながらSCにはあと5か月足らずで成りませんでしたが、十分でしょう。


 昨年は83歳の娘に先立たれるということがありました。普通ありえませんわね。



 本日、葬儀、出棺、骨拾いの後、初七日を木之本の自宅で行われ、親戚一同が集まって色々と話をし、素晴らしいひと時を過ごされたようです。叔母さんを縁として人々が相集い、何年か前のパウの物故者慰霊式での、大通寺輪番さんのお話を思い浮かべます。


 横浜の叔父が、「あっぱれな人生。」と言葉を送られたそうです。


 前にも書きましたが、若いころ京都の奉公先で身につけられた上品な振る舞いと笑顔で本当の孫のように優しく接して頂いた母の叔母さん。


 あっぱれな人生に献杯。

爆雨

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 本当に今年の日本の気候はどうなっているんでしょうね。毎年言っているかもしれませんが「今年の夏はおかしい。」ともいえる気候です。


 木之本のお地蔵さんも始まりましたが、各地では地蔵盆をやっておられるところも多いと思います。私共の大手町では今日と明日の2日間、行われます。夏休み最後の土曜、日曜と重なったこともあり、たくさんの人がお越しでした(観光に)。そんな中で当大手町自治会では、ろうそくをご自由にともしていただけるようにしております。



 今日はぐずつくとか言われても暑い中、天候はもっていましたが、15時半ごろから雨がぽつぽつ、そして、天気予報を見ていたものが「16時10分に時間40ミリの雨が降るらしい。」とスマフォで確認、そしたらピカッと光ったかと思ったら、すごい雷鳴。まるで何かが爆発したかのような感じでした。そしたら降ってきました。すごい雨。


 何度も雷が鳴り、すごい雨、写真を撮ろうと思って忘れてましたカメラ。商店街はアーケードがあっても隙間からすごい雨が入ってきます。一八屋席や曳山博物館前は激しい雨が入り込み、天然のシャワーミスト状態になりました。幸いに少ししたら雨足は弱くなりましたがゲリラ豪雨ならぬ、爆雨でした。


 広島でもたくさんの方が亡くなっておられますね。何とか災害を減らせるようにみんなで協力してやっていきたいものです。

先攻派ですか後攻派ですか

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 近江高校残念でしたね。「今大会は9回に何かが起こっている。」と試合後の談話で近江の多賀監督は言っていましたね。石川の星陵も予選の決勝で9回裏8点差を逆転サヨナラでした。今日の北信越対決。富山商業と新潟の日本文理の試合も9回裏に日本文理が逆転サヨナラ本塁打で勝ちました。近江は9回裏に逆転サヨナラ負けを喫しました。今日の試合は車のラジオで聞いていたんですが、試合開始の時に近江が先攻と知り、がっかりしました。昨年夏にバタコのおいの伊吹高校の試合を見に行ったとき球場に入ると伊吹が先攻であることがわかり、「なんや伊吹先攻か!」と言ってバタコにたしなめられたことを思い出します(笑)。


 よく球技大会などでソフトボールをする際に、試合前に先攻後攻を決めるのにじゃんけんをします。じゃんけんに負けたらたいていの相手は「先攻。」と言ってくれます。打ちたい、攻撃したい。と言うことなのでしょうか?

 私は後攻派です。なぜかというと、嫌いな守備を先にして心置きなく攻撃をしたいからです。だからじゃんけんに勝った時は後攻めを取るので相手は喜んでくれます(笑)。


 本日のように互いに点がなかなか取れないときなどはさよならゲームになることがあるので、後攻めの方が投手は気が楽ですね。


 最高試合の簑島と星陵は星陵が先攻で18回が来た時に、星陵の勝ちがなくなりましたから、守備側はつらかったと思います。


 また、9回まで試合ができるのならいいんですが、コールドゲームの場合、さよならコールド負けと言うのは何か悔いが残りますね。


 今日は残念でした滋賀県の初優勝はまたお預けです。


 いつも言いますが、滋賀県が初優勝するのと虎姫が甲子園初出場するのはどちらが先なんだろう?どちらも私が生存中にできるのかな?(笑)

校歌

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 甲子園大会。今日から3回戦。大詰めですね。高校野球は試合終了の例をした後で勝利チームはホームプレートに整列して、場内アナウンスで「勝ちました***高校の栄誉を称え、同校の校歌を演奏し校旗の掲揚を行います。」と流れた後、校歌が流れます。選手たちの嬉しそうな顔ですね。

 強い学校になるとあたりまえの様な顔をしていますが、これがしてもらえるのは甲子園で勝たないといけませんから、大変なことです。


 長浜高校が勝った時、テレビで校歌が字幕で書いてありましたが、作曲が姉川先生で、作詞が竹田(武田?どっちだったかな?)豊さんでしたか。身近な人の名前が出てうれしくなったことを覚えています。


 今では、2回の表裏の攻撃が始まるときに両校の校歌が流れますので、甲子園に出られたら歌うことはできるようになりました。これは1999年からと言われています。


 勝利校の校歌演奏並びに校旗の掲揚は日本の女子陸上のパイオニアの人見絹江さんがベルリン五輪でのメダル授与の際の国歌演奏と国旗掲揚に感動して提唱されたと言われています。


 2回の表裏に両校の校歌が流れるのは恐らく日本が初出場したサッカーのワールドカップフランス大会で試合前のセレモニーで両国の国歌演奏があり、それの影響ではないかなと思っています。



 さて、実は先日、み~なを見ましたら湖北の学校の校歌特集が出ていました。

 母校、長浜小学校は私が4年生の時に100周年を迎え、今の校歌になりました。前の校歌は16年ほどうたわれたそうですが、私は覚える気がなかったのか全然知りません。曲も全くわかりません。


 ちなみに長小、西中、虎高の校歌はすべて歌えます。大学の学歌は1番しか歌えません2~4番はすべては無理です。


 実は、バタコの母校の小学校の校歌の作詞は公募で昭和22年に作られたそうです。作詞者は何とバタコの叔母さん。叔母さんは私の母と同級生ですから、昭和11年生まれ、なんと11歳の時に作ったということになります。

 「霊峰伊吹の峰高く・・・」なんて書いていますから、11歳の子がいくら良くできた人でも無理ちゃうかと思うんですが、すごいですね。



 虎高の校歌は虎姫と言う字が一つも出てきません。巌谷小波作詞と言うすごいものですが、これは恐らく、旧制虎姫中学ができた時に長浜に移転することも考えていたのかなとも思います。しかしお蔭で、制度が変わっても校歌を変更することなく続くというのもすごいことですね。




 私が生きているうちに、甲子園に虎高の校歌を流してほしい。できたら勝って

七帝柔道記の虎高OB

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 5月20日に偉大なる先輩くんさんが書かれました「ぱんやさんが漫画に」で作者の北海道大学時代の話をもとに書かれた七帝柔道記の漫画で、出てきました虎姫高校OBの松井隆君。

 偉大なる先輩くんさんは、私がモデルではないか?と(笑)。でも、よう考えんでも私達(くんさんと私)は七帝大には無縁でございまして、私どもは、つるべい先輩が中退した大学でございました。


 これ、先日虎高の卒業生名簿が来まして見ておりましたら、確かに松井隆君は私より5つ下にいました。どうでもいいことを覚えている私、浮かびました。私の知り合いの親戚に、松井君がいました。私が学生時代、夏休みに柔道を教えに(遊びに)母校へ行った際に、2人、結構強い者がいました。ただ虎高は練習をしません。当時の滋賀県柔道界は比叡山が圧倒的に強く、長浜商工(現・長浜北星)が2位でした。彼は市民大会でその商工の選手としたらあっさり負けているのですが、その後、違う後輩から聞くところによると高校在校中に弐段(二段)を取ったそうです。要領のいい虎高生ですな。


 あとで、彼が私の知り合いの従兄と知りまして、それが長い間かすかに記憶の中にありました。それが出てきまして、昨日、本当に久しぶりに知り合いに電話しました。親父の葬儀以来の会話でした。その人は親父と親しく今の私を心配してくれて、「しっかりせい。」と言ってくださいました。



 改めて、七帝柔道とは何かと申しますと、何年か前のNHKのニュースで紹介されたのですが、現在旧7帝大(東京大、京都大、北海道大、東北大、名古屋大、大阪大、九州大)で行われている、現在の講道館や国際試合審判規定(ルール)とは少し違った、旧高専柔道の流れである寝技主体のルールの柔道です。だから寝技への引き込みが許されています。普通の柔道では寝技へは試合の流れの中での寝技への移行はいいのですが、自ら寝技に引き込むのは禁止されています。だから寝技のうまい選手は巴投げなどから寝技へ匠に移行しますが、うまくいかないときは、引き込み注意を取られ、相手に有効と同じポイントを与えてしまうことになります。



 私が学生時代、京大はそんなに強い大学ではなかったのですが、寝技をすぐやることで有名でした。「頭がいい大学なので何をするかわからん。」ということで、関西学生で1回戦当たったとき、7人戦で5-0(2人引き分け)で勝った時に監督の先生が烈火のごとく怒られました。「何をしている!逃げてどうする。」と。本当に強い先輩方が、信じられない試合をしておられたのが印象的でした。なお、1年後同じ七帝柔道の大阪大学が関西で敵なしの天理大学と当りまして、その試合私が記録員をしていましたが、本当によそ見ができないくらいでした。天理がどの試合も30秒くらいで片づけてあっという間に7-0で勝ってしまいました。



 柔道界では「立ち技3年寝技3か月」という言葉があるくらい寝技は努力で早く伸びるものです。まあ私は怠け者ですからいけませんが、強い選手は耳がつぶれていますね。わたくしは、これだけは避けようと耳を守りましたので強くなるはずもありません(笑)。


 ちなみに、YOUTUBEで松井君の試合を発見しました。ひげを生やしていましたが、私の記憶の中にある松井君でした。残念ながら負けてしまった試合でした。


 またどうでもいいことを調べて喜んでいる私です。ちなみに虎高の柔道部は部員不足で廃部になってしまっているそうです。柔道は団体だけでなく個人もある競技。誰か強い男でも女でもいいから同好会を作って、よそに出稽古に行って高体連に出てくれないかな。なんて思っている私です。



 

 
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長浜の大手門通りの米嘉席のところで「正しい材料、正しい方法、正しい姿勢」をモットーにパン作りに励むパン屋です。

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