今日は忠臣蔵の話し
昨日、当社のドイツパン(名前であり、ドイツ発祥のパンではありません)の前段に忠臣蔵を書きましたら油甚さんのコメントで英語では47士のことを47テロリストだとか。うまく訳していると思います。
昨夜仕事を終えて上がったら、テレビ番組の歴史ミステリーで忠臣蔵の事を言っていました。映画や歌舞伎で出てくる事で実際とは違うものが
1、みんな同じはっぴ等は着ていない。バラバラの服装であった。
2、太鼓を鳴らして行動はしていない。
3、隊列を組んで吉良邸には来ていない。但し帰りはそうしています。
考えたらあたりまえですね。同じ服(ユニフォーム)で移動したら目立つし、ばれますものね。これらは歌舞伎の見栄えをよくするために作られたことだそうです。
また、「けんか両成敗」の時代に綱吉はあんな片手落ちの裁定をして切腹も庭でさせたのか。
1、綱吉は儒教を重んじ大名の前で講義をするほどでした。湯島聖堂を建立し荻生徂徠、林羅山を登用しています。それらから、長幼の序を重んじ、年寄りの吉良をいい年をした大人の浅野内匠頭が切りつけたのは許せなかった。
2、母親の桂昌院の官位昇進の席を血で汚したのは許せなかった。のと、母親が怒った事。
3、朝廷からの策略で綱吉がこの件でプレッシャーを受け、吉良より浅野の処分が先にたってしまった。
と言うことだそうです。
わたくしは、忠臣蔵で吉良を打ち、主君の仇をとろうとして目的に向かって、手段を適切に行っていき見事に目的を達成する大石蔵之助の一連の行動については、私達が学ぶべきものだと思います。古代の兵法など人々の犠牲を伴って作られたものは貴重な財産であると思います。
ただ、47テロリストというのも忘れてはいけない。テレビでは、そのあと、吉良がなぜあんなに浅野に冷たい態度をとったのか?ということの解説がありました。吉良は高家という高い地位にありながら大名でなかったために引け目を感じ、息子を上杉家に養子にやり、一族が大名になって喜んでいた事情などがあるようです。
浅野は会社でいえば最高責任者の社長、にもかかわらず精神病(つかえ)であったとはいえ、おぼっちゃまのごとく殺人行為を犯すのですから、なんとも情けない。よく、リーダーとして一番駄目な見本として上げられている通り、この事件で多くの人を不幸に陥れたのは浅野のおろかな行動が原因であります。事件をよく考えて見れば吉良の人間としていやらしいいじめがあったとはいえ、片手落ちの裁定ではなかったのかもしれません。
ただ、幕府も簡単に浅野をとりつぶすだけで家臣などのことは考えなかったのも47テロリストが発生した原因です。
大企業ばかり優遇し小さな企業を痛めつけた構造改革も下手したら47テロリストを生むかもしれませんよ。
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