私の1.17
1995年1月17日(火)午前5:47分、突如大きな揺れで思わず片膝をついて枕元の箪笥が倒れることになれば何としても支えなければと思い、緊張していたわずかな間を鮮明に思い出します。
それはちょうど私が起きた時でした。そこには3歳の娘が寝ており必死の思いでした。しばらくして収まり6:00過ぎにNHKを見ると特に地震の放送はしていませんでした。地震があったようだということで局の蛍光灯等が揺れている様子は放映していました。
当時私は長浜北中学校に勤務していましたので6:30過ぎに家を出て勤務に就きました。出勤してきた先生方も大きな地震だったという話で、ことの重大さを話す人はいませんでした。
10:00頃気になっていたので職員室の小さなテレビをつけました。画面が出ると同時に燃え盛る神戸の町が映し出されました。それを見ていた者はただ驚愕するばかりでした。
以上があの時6,000名を超える犠牲者を出した阪神大震災のときの私の様子です。
後日、神戸市立鷹取中学校の男子バレー部の監督からその時のすさまじさと、避難所となっていた学校の様子を聞くことが出来ました。(この学校では地震から数日後教頭先生が過労でなくなっておられると思います)
数年後に淡路島の北淡町へ行きました。そこには活断層が大きな地割れをして地表に現れていました。活断層の上に在った立派な家が見事に傾きよじれていました。地震の規模の大きさと恐ろしさを目の当たりにしました。
地震・雷・火事・親父といいます。今日親父の怖さは地に落ちた感がありますが、地震の怖さは今も昔も同じです。
総力を挙げて地震に強い社会にしたいものですが?