酒袋
先日渋柿(しぶがき)をアップした所、柿渋(かきしぶ)のコメントをいただいて
あ~そういえば柿渋の酒袋がまだ少し残っていたなぁと思い出し、どこにやったかな~。
探せど探せど見つからず大事にしまいすぎてどこにあるかもわかりません。
大探ししましたら、やっと出てまいりました。
これは酒袋を二つ折りにしたところ。
昔はどこの酒蔵でもこの酒袋がありました。
酒袋とは、簡単に言うと酒を絞る時に使われていた綿の布の事です。しかしこの綿の布はただ単なる布ではなく、大糸を荒めに織った手織木綿に柿渋(かきしぶ)を塗るという工夫がなされていました。
まだ青いうちの渋柿の果実を砕いて絞った液を、発酵・熟成させた液が柿渋なのですが、この柿渋は布や繊維を固めて丈夫にしたり、防水力を与える防水剤、繊維を腐らせないようにする防腐剤等の役目をしてくれます。
その昔は酒袋に使われていただけではなく、網や和傘、染料用の型紙などの水に関係あるものには必ず、この柿渋が塗られていたほど生活には欠かせないものだったようです。
昔の人の知恵はすごいですね。
毎年、毎年その工程を繰り返すうちに柿渋の色がついてなんとも趣深い色になってまいります。
現在の酒造りにおいても柿渋は、できた酒中のタンパクを沈め、透明な酒にしてくれるという役目をしています。
話は酒袋に戻りまして、どのようにこの酒袋を使って酒が絞られていたかといいますと、もろみを入れた酒袋を、酒槽(さかぶね)と言われる木製の長方形の容器に積み重ね、荒絞りして「酒」と「粕」に分離します。絞った後の酒袋に残った物が皆さんよくご存知の「酒粕」です。
翌日もう一度絞り直し、さらに一日圧搾して「粕」を抜き出し酒ができます。現在となっては、自動もろみ圧搾機が普及した事により、手間暇かかる酒袋を使用して酒を絞る酒屋は少なくなってしまいましたので、この袋、けっこう希少価値が出てきているようです。
しかし近年において、何度も何度も使うことによってできる全く異なる酒袋の色合いやカスリ具合、また格別に丈夫で、防腐性・防水性のある生地が魅力となり、酒袋を生地に使ったかばんなどの小物が作られ販売されており、人気が高くなっているようです。
うちにもこのような酒袋で作った小物がありました。
このような酒袋は、職人達が何度も何度もついで大事に使っていたのでついだ跡もたくさん残っています。
うちの蔵も、分けてほしいという人にお譲りしたりで残っている酒袋も数枚になってしまいました。
写真とはもう少し色合いが違います。
もう少し濃い茶色をしています。
柿渋あなどることなかれですね。
手榴弾投げ
父が面白いものを見せてくれました。
これが初級
これが中級
これが上級
これは水泳体力章とかいてあります。
これは何?と尋ねますと、
これは昭和14年から17年までにあったもので、手榴弾投げをして距離を測ったり、土嚢かつぎなどで体力を測定してもらえるバッジで左から初級、中級、上級で一番右端の水泳の体力賞をもらってそこにはめ込んで服につけたのだそうです。
今で言うスポーツテストみたいなものですね。
投げる物が手榴弾ってところが時代を物語っております。
「この上級のバッジをもらうのが結構難しいんやで
そやけどな、この検定をする先生がすごい近眼でな、「はい、次の人」って言ったときに、肩の強いやつに代わりに手榴弾を投げてもろたんや、ハハハハ」
ハハハハって。
しかしこのバッジを70年間残しておく父もすばらしい。
しかも風邪薬のルルの瓶に入れて。
かなり珍しいものなので、どこか展示してもらえる所に寄付したいと父は申しております。
不作
今年の柿木。
けっこうなってるやん。
しかしこれは渋柿なんです。
美味しい柿木は今年はこんな感じ。
高い高い上の方に2,3、個。
もう一本の柿木は…
全滅
一つも実をつけていません。
青い柿の実は、確かになっていたのに。
食べられないと思うと無性に食べたくなるものです。
柿食べた~い!
三七日
先日、阪急の催事の時に大阪までお酒を買いに来てくれ小学校からの親友。
来てくれた次の日にお父様が急死され、私は何も知らず催事が終わってバタバタしている間にお葬式も終わってしまい、私は油甚さんから教えてもらって初めてこのことを知ったのです。
昨日は三七日をご家族だけでされると聞き、改めて本人の顔を見てお悔やみが言いたかったので、彼女を長浜駅まで迎えにいくことになっておりました。
すると阪急でお世話になった社員さんが11時半頃に店に寄りたいとのメールが。
ん~、なんとか間に合うかと言う判断で、事情を説明して木之本を案内することはできないけれどということで来てもらうことに。
彼女達の着いたのは11時45分。それから試飲などをしてもらい、簡単に蔵見学。
そこへ『清泉閣』さんからお酒の注文が私の携帯に。
う…今日に限って。
そのまま車にお酒を積んで、配達に。
急に雨がひどくなってきました。
その足で長浜の『みたに』さんに配達。
その足で『紅蓼』さんに営業。
あ~、間に合った。ちょうど親友の電車の時間10分前に長浜駅東口に到着。
二人で喫茶店に行って美味しいコーヒーを飲んで、直接顔を見てお悔やみが言えました。
彼女もまだお父様の死が突然の事で受け入れられないみたいで二人で話しているとぐっときてしまう時もあったけれど、会えてよかったです。話せてよかったです。
二人で私に知らせてくれた油甚さんってほんまに人の心の分かるええひとやなぁ~、と。
ということで二人で油甚さんを訪ねることになりました。
油甚さんを訪ねると、ブログでご登場の番頭さんが出てきてくださいました。
そしてお母様もいらっしゃいます。
油甚さんは園遊会の催しの方に行かれているようでいらっしゃいませんでした。
番頭さんに、胡麻油のことをあれやこれやと伺いながら、胡麻油三兄弟をいただいてまいりました。
この胡麻油はどうやって使い分けるんですか?
と番頭さんにお聞きしますと、「ほれ後ろに書いてますがな」
「ほんまや!」てなことを話しておりました。
お母様に名乗りますと「小さい頃はよう覚えてるわ」と言ってくださり、こんな有名人に知ってもらえてて幸せだなぁと思ったのでした。
ブロクで宣伝されていた効果てきめん、ゆずの囁きにも手が伸びておりました。
今日はカレー鍋をしたので、このゆずの囁きを聞くのは後日にいたします。
もう親友を送っていく時間も迫っていたので、そろそろ失礼しようとした時、なんと油甚さん登場。
今回はもうお会いできないと諦めていたので私たちは大喜び。
「まけといたって」の一言でお安くしていただきました。
重ね重ねありがとうございました。
二人で帰り道、同級生っていいなぁ。(まけてもらったからではありません)
なんてことを話しながら彼女を弟さん宅まで送って行ってきました。
もっと顔を見たら号泣してしまうのではないかと少し心配だったのですが、ゆっくり話せてよかったです。
雨もあがって綺麗な振袖を着たお嬢さんたちが、街角を歩かれていました。
彼女もまだ今は辛いだろうけれどいつか乗り越えてくれるだろうことを祈って長浜を後にしました。
仮名手本忠臣蔵
昨日は母がお出かけ。
私は店番です。
母が「インターネットでチケットとってほしいんやけど」
と言ってきたのは何ヶ月か前のこと。
私はネットでチケット購入などはいつも主人にお任せしていたので、どうするんやろ~
主人に頼みますと、息子ってお母さんに冷たいのね。「自分でなんとかしたら」とつれない返事。
仕方がないので書いてある通りやってみたらなんとかかんとかチケットを取ることができました。
「もうできるから、いつでもまかせて」と私。
そして取ったチケットはと言いますと
顔見世 通狂言 仮名手本忠臣蔵
市川團十郎 片岡仁左衛門 中村福助 中村橋之助などなどそうそうたるメンバー。
これが朝から晩まで、お昼と夕食付き。
お尻痛くなりそう。名古屋までお友だち6人で行きました。
帰ってきた母は「楽しかった~!お尻が痛くなるかと思ったけど全然大丈夫やったわ」
と喜んで帰ってまいりました。
なだれのようにあらすじなど話が母の口から次々出てきます。
余程、楽しかったのでしょう。
お土産にアイスクリームを買ってきてくれました。
最中とアイスが別々に入っています。
よく名古屋から溶けずにもつものですね。
美味しいお土産ありがとうございます。
お母さん、命の洗濯ができましたね。
よかった、よかった。
母:「体力に自信がついたからまたいけるわ」
私:「どうぞ、どうぞ」