シーツ
お日様でふっくらしたお布団にシーツをかけます。
またこのシーツ糊がきいていてピンピン!
ひどい時にはこの糊を剥がす時にビリって破ってしまうことも。
糊のきいたシーツ気持ちはいいんですけどね。
はい。出来上がり。
大掃除
そろそろ酒造期が近づいてまいりました。
杜氏さんたちの泊まられるお部屋の大掃除です。
一年はなんと早い事でしょう。
午前中はいいお天気との天気予報、15時ごろから雲って来るらしいので、早めに布団干しをしました。
15時ごろにはふかふかのお布団の出来上がり。
屋根の上ってすごくよく乾くんですよね。
部屋の中のカーテンも全部洗濯し、干しました。
よく乾いて洗剤のいい香り。
お部屋も気持ちよくなりました。
キリシタン燈籠
うちの庭には少し変わった燈籠があります。
普段草むしりをしていても普通に見過ごしていたものですが、父の妹にあたる叔母さんが同志社の大学生だった頃、その当時カトリック教会に英会話の勉強に行っていて、キリシタン燈籠の研究家であった長浜カトリック教会のジャンハリス神父からその話を聞き、うちにもあるということで、長浜市大手町カトリック教会のオニール神父(日本キリスト教史を研究している学者)に見せたところ、「キリシタン燈籠」(マリヤ燈籠)であると断定されたとその当時1963年ごろのサンケイ新聞に載っています。
その燈籠がこちら。
キリシタン燈籠は高さが1メートルで下部に17cmのマリヤ像が刻みこまれています。
真宗の盛んなこの地方ではめったに発見されず、一説には江戸時代初期の作といわれ、同地小谷城主だった浅井長政のむすめの一人がキリスト教信者であったと伝えられていることから、当時の作とわかれば結びつきが考えられる貴重な資料になると新聞には書かれています。
湖北地方では、米原町の青岸寺、長浜市の因乗寺、浅井町の孤蓬庵などにあるそうで伊香郡でみつかったのは、初めてだそうです。
キリシタン燈籠の特徴は、竿石の上部分に袖(そで)が必ずあって、それはクルス(十字架の形)をしています。
竿石のの中央部、下の部分に観音像があります。
普通の燈籠のように台石の上に立っているのではなく土の上に立っているのが特徴のようです。
キリシタン燈籠とはなんぞや?
迫害にあったキリシタンたちをなぐさめ、はげましたものはサンタ・マリア(イエスキリストの母君、聖母マリア様)。キリシタンたちを迫害の死から救うためには、仏教に変装する必要があったようで、彼らは密かに信仰を固守しながらも、表面上の仏教徒となり、そしてマリア像を観音像にしたり、また、十字架(クルス)を隠すなど色々工夫したようです。ますます弾圧が厳しくなると、その場所を燈籠の竿石(さおいし)の中に入れ茶の湯の会合と偽って集合して官憲の目を逃れていたようです。
キリシタン遺品として、また茶の湯の芸術品としての燈籠は高く評価されるのだとか。
なぜうちの庭にキリシタン燈籠があるのか、またいつごろからあるのかは誰も知りません。
親心
先日ともの木で行った津軽三味線と民謡のコンサート。
歌姫の塚田陵子ちゃんのお母様が、わざわざ尋ねて来てくださいました。
「十分すぎるくらいお心遣いをいただいてありがとうございます」
と言ってくださいます。
「そんな、こちらが頼んできていただいたのですから当然のことをしたまでです。」
とお答えしたのですが、なにやらたくさんのお気遣いを反対にいただいてしまいました。
鮭寿司
こんなにたくさん。美味しそう~
それから、まだあります。
メンバー一人づつに可愛い小物入れ。
それから、それから。
聞いてよかったからと言って。
斉藤一人さんのCDを。
さっそく鮭寿司はメンバーに分けて、小物入れと一緒に渡してきました。
CDは順番に回そうと思います。
娘を思う親ごころ。
ありがたく頂戴いたします。
なかなか思っていてもできないですよね、こんな気遣い。
「きっと赤字だったのでは」と心配までしてくださいます。
「コンサートに来てくださった方、皆さんがとってもよかったと喜んでいただきました。それが私たちの一番の喜びです。陵子ちゃんたちに来ていただけてほんとによかったです」とお母様にはお話しました。
私も子を持つ親の身、ここまで親として心遣いができるだろうかと、感動し、感謝しました。
鮭寿司、美味でした。
ほんとうにありがとうございました。
西野隧道
お天気がよかったので父とドライブです。
高月町の有名な史跡の一つ、西野隧道を見に行くことに。
子供が小学校の時に、この西野隧道について調べて、学校で劇をしたことがあったので、名前だけは知っていましたが、本物を見るのは初めて。
このトンネルは2代目の西野隧道。
歩いて通ることができます。
中はちょっとひんやり。
やっと出口です。240mくらいでしょうか。
ここを通り抜けると初代の西野隧道が見られます。
この出口の右側。
西野隧道は1845年に西野恵荘さんによって掘られたトンネルです。これは今から164年前の出来事です。西野隧道はたびたび余呉川の氾濫によって浸水に苦しめられた高月町西野周辺の集落を守るため、氾濫した水をびわ湖へ逃がすために作られたそうです。初代のトンネルは手作業による掘削作業で岩盤の硬さや落石事故により難工事だったと言われています。
この初代の西野隧道も人一人が通れるようになっていますが、父の持ってきてくれた懐中電灯が消えかけていたので、今回はここまで。
子供の話ではコオモリが飛んでたと言っていました。
ゴツゴツとした岩肌がみえます。
これを一人で掘られたのでしょうか。
気の遠くなる話ですね。
これが現在の隧道(余呉川放水路)
小さな魚がピチピチ跳ねています。
昔、父はよくここで釣りを楽しんだそうです。
琵琶湖へと流れていきます。
この西野恵荘さんの銅像があるお寺。
充満寺。
近くにあるとってもすごい史跡でした。
今度は電池の新しい懐中電灯を持ってぜひ初代西野隧道を通ってみたいものです。