大鵬と時代の終わり
油甚さんが元横綱の大鵬の逝去関連のことを書いておられます。子供の頃に見られた玉の海との一番についての記述はすごいですね。相撲に詳しい人でも、あれだけキチット解説が入るように見られる人はそうないですからね。やはり油甚さんは天才だ(こんなことを言ったら大鵬と一緒で「私は努力の人。」と叱られるかな。・笑)。
その大鵬。私が相撲を見始めるようになったとき、大鵬が横綱でした。その時はもう晩年に近いときでした。玉の海と北の富士が横綱に昇進して新しい時代が作られようとしていた時でした。
小学校低学年の頃、今の北ビワコホテル住文のある場所が空地の頃、そこに大相撲の巡業が来ていました。そのころはそんなに相撲に興味がなかったのですが、大鵬の土俵入りが行われたときの美しさは覚えております。そして、まもなく大鵬が引退。その引退前の場所だったような気がしますが、大相撲の千秋楽で大鵬12勝2敗、玉の海13勝1敗で対戦。がっぷりの四つ相撲で玉の海が寄り切って勝った相撲を覚えています。大鵬が引退した後、盲腸で入院した玉の海が亡くなったあとから、相撲を見始めました。だから、そんなに大鵬は覚えていません。
巨人・大鵬・卵焼きという時代も私は大鵬と長嶋の全盛期はそんなに記憶がありません。大鵬の優勝も知らないし、長嶋が最後に首位打者になったことぐらいかな。ちなみに長嶋はそのあと1回も3割を打てませんでした。
日本が高度成長で伸びていたころ。それは日本が人口ボーナスの時代でした。今は昨年の東名高速のトンネルの崩落事故に現れるように、そのころに作られたものが修繕の必要が出たりするなど転換期を迎えています。
あの千里ニュータウンもオールドタウンで建て替えの必要が出ています。
当社ビルも、何とか建物の地上部分が無くなりました(一緒にするなと言われそうですが・笑)。
よく考えたら大鵬が引退したころに父たちがこのビルを購入して、そして亡くなるときに、解体したんですね。何か因縁を感じます。
ウオーキング
ぱんやさんがウオーキングを始めたのかと思った人もいるかもしれませんが、そんなことはとてもできません(笑)
それでも、少しは歩かねばと思って、以前は自転車を使ったり、車で行っていたところを、なるべく歩いて行くようにしています。
朝なんかは気持ちがいいですね。
正月の元日。バタコの実家は湖北町なんですが、年頭に行くのに私だけ河毛駅まで電車で行きまして、そこから歩いていきました。実家は役場の近くですが意外と近く、長浜駅から旧市民病院か楽市ぐらいかな。天気が良く気持ちのいい歩きでした。
先々週は浜大津に用事があったのですが、少し早く行きまして、大津駅から街中を歩いていきました。仕事を始めたころ西友大津店へ研修に行ったのですが、そのころと比較してすごくお客様が減っていました。商店街も静かでしたね。
歩いているといろいろ発見できたりします。店のある自治会の総会の時。皆さん私の健康を心配してくださり、歩くように勧められます。
現自治会長なんかは、曳山祭りの裸参りのコースを歩いておられるそうで、静かな静寂な中の八幡宮へお参りして身も心も洗われるそうです(水はかぶらありませんよ)。
少しは歩いて鍛えないと私も「食ちゃ寝」ではしまいにあかんなあ。
プロレス見学
本日は知り合いに誘われまして全日本プロレスの興行を米原の文化産業交流会館に見に行ってきました。切符にはカメラでの撮影は禁止ということでしたのでカメラを持参しませんでした。何でも動画はダメですが普通に写真はOK。ただし自分の座席からということでした。だから写真なしです、ごめんなさい(笑)。
さて、プロレスも最近はテレビ放送がないために選手の名前はほとんど知りません。今回も武藤敬二は怪我をしているためか試合はできませんので知っている選手は曙だけでした。ただ、武藤はサインのためには出てきました。大きい選手はいますが、私と変わらないぐらいの体格の選手も多くいましたね。ただ、体のつくりは当たり前ですが全然違います(笑)。本当に鍛え上げられた美しい肉体ですね。私も昔はこんなんだったなあ(あそこまでは無理ですが)と久し振りに懐かしんでいました(笑)。
よくプロレスを単なる見世物、八百長だなどという人がいますが、そんな軽く見てはいけません。あらゆる角度から人間の限界まで鍛えあがられた体でぶつかり合う、素晴らしいものです。格闘技の選手は試合前に本当に震えるそうですが、わかります。命を懸けたものですからね。
今回はリングサイドの最前列で見ました。座席とリング下とは鉄の柵で完全に隔てていましたが、それでもレスラーがぶつかってくるのは本当に迫力がありました。
いやあ、格闘技って本当に素晴らしいものですね。
誕生日と震災の日
昨日は私の誕生日でした。母親というものはいつまでも、こんなに歳をとっても息子が気になるのか「どこかで食事しよう。」と朝から言っておりました(笑)。
ということで、歳をとると焼肉などは行かず和食がいいかな。そしたら、母の妹にあたる叔母が何か注文した時に良かったということで、北新町の某お寿司屋さんでコースを頼んで行きました。
私も酒は控えているんですが、久し振りに生ビールを3杯飲みました(あほか、どうなっても知らんぞ!という目線のバタコ・笑)。華やかさはありませんが美味しい値打ちの食事でした。幸か不幸か他のお客様はおられませんでした。
この日はフェイスブックで多くの人たちからの温かいお祝メッセージが届いていました。
そしたらテレビからニュースで阪神大震災の慰霊祭のニュース。あれから18年。早いですね。
私はその日は某葬儀屋のKさんと一緒に韓国に行く予定でした。前日に名古屋で泊まりましたので、同じように誕生日の祝いをしてもらって小牧空港近くのホテルに泊まっていました。朝早く、「あれ、地震だな。」と思っていたら長く30秒近く揺れました。テレビをつけたら「名古屋震度3、彦根震度5」の表示に冷や汗。すぐに電話(当時はまだ携帯を持っていません。)したら、3回くらいの呼び出しの後に母が出てほっとしたことを覚えています。
テレビではずーっと地震関連のニュース。テレビでは「地震の被害は確認されていません。」が繰り返され、そんなに深刻さを感じていませんでした。当時の村山内閣で政府の初期動作の遅れが後に非難されていますが、情報の遅れが、深刻さを感じなかったのかなと思います。飛行機に乗るときテレビで「今、***の高速の落下が確認されました。」と聞いても、そんなに思いませんでした。ソウル(当時は金浦空港)到着後、タクシーの中で地震のニュース。そして、ホテルの部屋でテレビを見て深刻な状況を初めて知りました。
それから約1か月後、青年会議所で炊き出しに神戸の水木小学校の避難所に行きました。「本当にこれが長浜と同じ日本か?」と思いましたね。
翌年に神戸にある某製粉会社でパンの講習会がありました。芦屋駅から会場までバスで行きました。道路はほぼ復興していましたがそれでも車はガタガタ揺れました。道路が地面の隆起などで見えない感じで凸凹だったからです。
平成8年の秋、パン業界の集まりが神戸のメリケンパークオリエンタルホテルで開かれましたが、その時の挨拶で「皆さんどうですか、この神戸の町は。」と第1声を発して復興を喜ばれた代表幹事の神戸のパン屋さんの姿を忘れることができません。
その後、神戸へ行くと、三宮など大資本が入っているところは復興も早かったのですが、被害の大きかった長田区などは、長い間バラックなどの建物が多かったですね。
一昨年、長田区でお話を聞きましたが、最高の防災は「隣近所のつながりが密であること。」だそうです。正月の自治会の新年会がよく行われていますけど、お互いに懇親を深めていきたいものです。
成人の日の思い出
昨日は成人の日でした。私たちの頃は1月15日と決まっていました。その日はラグビーの大学と社会人の日本一の決定戦が行われる日でもありました。何か1月15日は華やかな初々しい気分の1日だった気がします。
ゆうこりんさんや油甚さんが「私の年は大雪だった。」と言っておられますが、私より1学年上は56豪雪の年。当時学生だった私に母から手紙が来まして、「晴れ着が台無しにならないか心配。」と記述していたのを思い出します。
それから1年。私たちの年はいい天気でした。成人式に出るのは当然同い年ばかりですので同窓会のような雰囲気になります。数年前から成人の日はハッピーマンディで月曜日ですが、同窓会などがしやすいように前日の日曜日にするのはいいことですね。
最近は成人の日が少しましになったとはいえ、荒れるところもあるようですが、油甚さんの息子さんのようにしっかりしたこと、感謝の気持ちを述べられる方もありますので心強いですね。
さて、今年の新成人が生まれた年なのかな?私が30歳の時、成人式がロイヤルで行われるようになりました。以前にも書きましたが、その時パンをご注文いただきまして配達したことがございます。そしたら、「皆さんもう入っておられますから、どうぞ。」と言われまして「もう10年前に出ております。」と言ったらびっくりされたことがありました。考えたらあの頃に生まれたか腹の中に入っていた子が成人式なんですね。
バブル崩壊後で好景気を知らない新成人。品格ある国家日本をさらに磨いていくために頑張ってください。