脳死は人の死?
テーマ:ブログ
2009/06/19 20:08
昨日(18日)衆議院本会議で、「脳死後の臓器提供年齢制限を撤廃し本人が生前に拒否しなければ家族の同意で提供が可能にすることが出来る」という、臓器移植法改正案のA案を賛成多数で可決しました。
この問題は何年も前から議論されてきました。臓器提供を待つ人が沢山おられることは多くの方が承知しています。その本人及び家族の気持ちは十二分に理解できます。
一方、脳死の方を看病しておられる方もおられます。今朝のニュースでも4歳の脳死の子どもを看病しておられるお母さんは、「求められても提供できません」とおっしゃっていました。脳死であっても命は呼吸をし爪も髪の毛も伸び懸命に生きようとしているのです。
ご承知のように生命の最初の誕生は心臓の動きから始まります。やがて細胞分裂をして様々な組織へと成長してゆきます。こうしたことを考えると、果たして脳死を人の死として断定して良いのか疑問が出てきます。
日本には日本の歴史と文化があって、何でも欧米に習うことはないと思うのです。せめて8割以上の国民が理解できるまで議論を尽くして頂きたいと思うのですが?
コメント
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2009/06/19 23:14これは物凄く難しいテーマだと思います。
貰う方もあげる方も、それぞれに意見があると思います。
こんな重い議題をこんなに簡単に決めてしまって良いものでしょうか?
「命」を扱うテーマなのでもっと医学的見地、宗教的見地等、いろんな角度からディスカッションするべきではないのでしょうか?
私の個人的意見としては、他人の命をもって自分が生きるという事は考えられません。
最初に与えられた寿命の中で、精一杯生きていくべきだと思います。
私はどれだけ生きたか?より、どのように生きたか?が大事だと思っています。
まぁ、ホントに個人的意見なんですが…
とにかくこんなに簡単に決めていいのか???と思います。
代議士ってそんなに信用できるのか??
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2009/06/20 01:41おそらく議論をすればするほど結論は出なくなります。答えがないと思うのです。
西洋ではイエスかノーか、在るか無いか 白黒つけたがります。我思う故に我ありというお国柄。
東洋では相反するものを飲み込んだ思想があります。陰と陽を含む大極、色即是空・空即是色、非想非非想処などですね。
人の死を問うということは、人の生を問うことに他なりません。
私はどこかで生死を区分けしようという意識が少ないので(「意」がどこに残ろうとするのかが大切だと思うので)、脳であろうが心臓であろうがどちらでもいいじゃない、というスタンス。人のお役に立てるのなら、脳死でも結構と思っています。
ただ、ずいぶん前に母が亡くなった時、心停止の6時間前に脳死でした。脳死であることを告げられたときに自問自答しましたが、現実問題、家族としては割り切れませんでしたね。
でも日本人の意識からすると、もともとそのことに執着してこなかったように思います。近代以前は、死は日常だったわけで、土に還りまた再生されるという輪廻の意識が強いように感じました。
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2009/06/20 11:47私も答えは出ない問題だと思います。自分の家族が臓器移植を受ければ生き続けられ、なおかつ経済的に海外での臓器移植を受ける余裕がある場合、これを拒否することができるのか甚だ疑問であります。
もしそうだとするなら、恐ろしく費用のかかる海外ではなく国内で受けられる道を開くということが国民のためになると国会議員の先生達が選択したことは、理解できるような気がします。
特にA案派にせよD案派にせよ脳死を認める立場が大多数であったことは尊重しなければなりませんし、党議拘束がかからず個々の議員が判断したことに意義を認めるべきだと私は思いました。 -
2009/06/22 06:50りゅうたろーさん、ねむり博士さん、油甚さん、おはようございます。そして有り難うございます。
脳死問題について気になることが二つありました。まず、衆議院でこの問題を討論中居眠りをしていた議員が多数いたこと、ロビー活動で賛成に転じた人が多くいたこと等々議員個人に如何ほどの信念と確信があったかという点です。
次に死の問題を論ずるときは科学的・医学的・宗教的・風土的様々な見地から論じ国民の多くが納得できることが大切だと思うのです。
私は良識の府?と言われる参議院での議論と結果に期待をしたいと思うのですが?