曳山祭りにおける挨拶
昨日の曳山後片付けの日の夜に負担人のお店で中老の後宴が行われました。いくつかの課題はありましたが、本年の祭りが無事終えられて、みんな、喜びに満ちた席となりました。
その席で祭りのエピソードが色々と出たのですが、先日のブログの中に書いていましたようにある中学の社会見学の際に先生でもキチット挨拶される方とそうでない方がおられた話しをしました。
そしたら、「祭りは挨拶がなしでは見てもらえんと拒否せー(笑い)。」と言われた歴代負担人がいました。
あまり知られていませんが「曳山祭りは挨拶のまつり」と言っても差し支えないくらい厳格に挨拶をします。例えば1番山が芸を終えたら1番山の負担人は必ず2番山と総當番に挨拶をしなければその場を去る事が出来ません。
もし、1番山が2番山に挨拶をしていないと2番山はいつまでも芸をしません。何年か前に神輿還御の儀の際に挨拶がなく、いつまでも待たされた事がございました。それ位厳格なものであります。
これは、携帯電話どころか通信手段のない時代に、滞りなく、各地で芸を行うためにとられた昔の人の知恵なのかもしれません。現代社会では通信手段が発達し、負担人同士が携帯電話で連絡を取り合えばすむようになりました。
しかし、この挨拶は形式であっても残すべきものです。実際にこれらは社会生活で非常に役に立ちますし、スムーズな社会運営に貢献いたします。
学校で曳山祭りのことを色々と教えていただき地域のことを学ぶのはいいことですが、挨拶の意味などこの挨拶の文化を教えていくことがもっと大切で、これこそ命の伝承につながるのではないかと思います。
曳山後片付け
昨日は曳山祭り終了後初の日曜日。幸いにも好天に恵まれ、各山組みでは曳山の装飾品の後片付けが行われました。当大手町でも午前9時から行われました。
後片付けは各家や商店から1名づつ出ていただきます。但し、女性は山に登る事が出来ないので、下で部品などを磨いたり、廻りの後片付けを行います。
写真では後方の胴幕がまだ外れていませんが、当然はずして袋の中に入れます。壽山のシンボルでもある龍の金具の彫金飾りの前柱はおおいで保護します。そのほかも写真のようにカバーを取り付けます。
文政7年と書いた飾り物の入った箱のふたです。ちなみに文政7年は1824年。この年は昨年の大河ドラマ・天璋院篤姫で出て来ました徳川13代将軍・家定や幕末の花神、大村益次郎が生まれた年であります。ちなみに、壽山は天明2年(1782年)に作られております。
これも古の顔も知らない人との時間と空間の共有ですね。
こうして来年のお祭り前に山掃除を行います。祭りの本日(15日)には山蔵前で展示します(関係各位からの依頼があった場合のみですが)。それまでは、山蔵に保管されます。