お盆の由来!
テーマ:日常
2008/08/15 08:15
今日(14日)は幸い朝から曇天で8:30分過ぎにお墓参りに行きました。
お盆の由来を知っている人も多いと思いますが未知の人に「盂蘭盆経」の説話を少しお話したいと思います。またお盆のお墓参りについての私の思いを少し述べてみます。
「ある時神通力第一の仏弟子目連尊者が、餓鬼道に堕ちてやせ衰えて苦しんでいる母親を見つけました。何とか救おうとしますが差し出すものが総て炎となり逆に母を苦しめることになります。目連は自分の力のなさに嘆き悲しみお釈迦様に救いを求めます。
お釈迦様は『世の母は皆我が子を育てるために様々な罪を犯さねばならない。その罪を背負って苦しんでいる母を救うことは子どもの責任である。しかし、この母を救うには神通力では不可能だ。それが出来るのは、仏・法・僧の三法の力である。そのためには三ヶ月に渡って行なわれる雨期の安居(あんご⇒僧侶の修行)が終わった7月15日(新暦8月15日)の修行の反省会のとき総ての修行僧に供養を捧げることです』と教えられた。
そこで目連はお釈迦様から教えられたとおりに母が残していった財産の総てを食べ物・果物・灯明・衣等に替えて修行僧に施し、母も目連の勧めに従って三法に帰依しました。
こうして餓鬼道の苦しみから解放された母と子は歓喜し、お釈迦様に『三法の神通力によってお救いにあずかることが出来ました』とお礼を述べました」
この歓喜を表す踊りが盆踊りとして日本各地に伝わっています。
お盆には家族親族が共に集まり、墓前で生と死を包んで一切を照らしたまう阿弥陀様を念じます。その時はじめて私達は亡き人との共通の場が与えられていることに気付くのではないでしょうか。
また、阿弥陀様を念ずることによって私達は今尊い“いのち”のバトンを受け継いでいることに気付くと共に、そのいのちを輝かす生き方に気付くのです。
そういうこの世を離れた領域の確認が出来るのがお念仏の世界であり、お盆のお墓参りでもあると思います。 合掌
お盆の由来を知っている人も多いと思いますが未知の人に「盂蘭盆経」の説話を少しお話したいと思います。またお盆のお墓参りについての私の思いを少し述べてみます。
「ある時神通力第一の仏弟子目連尊者が、餓鬼道に堕ちてやせ衰えて苦しんでいる母親を見つけました。何とか救おうとしますが差し出すものが総て炎となり逆に母を苦しめることになります。目連は自分の力のなさに嘆き悲しみお釈迦様に救いを求めます。
お釈迦様は『世の母は皆我が子を育てるために様々な罪を犯さねばならない。その罪を背負って苦しんでいる母を救うことは子どもの責任である。しかし、この母を救うには神通力では不可能だ。それが出来るのは、仏・法・僧の三法の力である。そのためには三ヶ月に渡って行なわれる雨期の安居(あんご⇒僧侶の修行)が終わった7月15日(新暦8月15日)の修行の反省会のとき総ての修行僧に供養を捧げることです』と教えられた。
そこで目連はお釈迦様から教えられたとおりに母が残していった財産の総てを食べ物・果物・灯明・衣等に替えて修行僧に施し、母も目連の勧めに従って三法に帰依しました。
こうして餓鬼道の苦しみから解放された母と子は歓喜し、お釈迦様に『三法の神通力によってお救いにあずかることが出来ました』とお礼を述べました」
この歓喜を表す踊りが盆踊りとして日本各地に伝わっています。
お盆には家族親族が共に集まり、墓前で生と死を包んで一切を照らしたまう阿弥陀様を念じます。その時はじめて私達は亡き人との共通の場が与えられていることに気付くのではないでしょうか。
また、阿弥陀様を念ずることによって私達は今尊い“いのち”のバトンを受け継いでいることに気付くと共に、そのいのちを輝かす生き方に気付くのです。
そういうこの世を離れた領域の確認が出来るのがお念仏の世界であり、お盆のお墓参りでもあると思います。 合掌