やっぱり裸参り
昨夜、ブログをアップした後、「ヨイサ、ヨイサ。」の声が聞こえてきました。やっぱり裸参りやるんかなと思っていましたら、妻が宿直室から降りてきまして「見てくる。」といって出て行きました。
なんでもこれは羽織参りを行うK山が当店の前の米嘉席で曲がるころに声を上げたそうです。粛々と行うのが通常の羽織参りですが、これもいいのではと思います。
そんなことで大手門通りに出てみました。近所の人達と談笑していますと裸参りを行う山が来ました。やっぱりいいですね。今年は震災の影響で今日で1ヶ月ですから総当番は羽織参りを推奨されました。しかし、裸参りをするか羽織参りにするかは各山組の判断に任せるとなっています。
いろいろな判断があろうかと思いますが、やはり裸参りのほうが見ているものも元気が出ます。ある山組は今日だけ裸参りをするというところもあるようです。こういうこともいいのではと思います。
昨日、minoriさんが裸参りと曳山祭りの関係について聞いてこられました。例のごとく詳しい説明は油甚さんにしていただいたほうがいいと思いますが、裸参りはいつの時代(江戸時代も明治時代も、今も)も一番籤を引き当てたいのと子供役者が健康で祭りが成功することを祈って行われるものです。
一番籤は最近では「一番いい籤」ということになっているようです。八幡宮で奉納狂言した後、途中2箇所で狂言を行い、最後にお旅所で行います。そのとき1番山は明るいうちに終わります。それに比べて3番山のころは日が暮れて曳山の舞台に灯が入り、照明などで、より役者が美しく照らし出されるので3番がいいと言われる方もおられます。
また昨年のように全山出場となると全山がそろって待っている中に入るという栄誉から昨年は4番を引きたいと思う山が多かったようです。
役者の健康と祭りの成功を願う姿勢は、どこの山もいつの時代も同じでありますし、顔も知らない過去の人々と時間と空間を共有することが出来る貴重な場であります。
裸参りを裸祭りや、けんか祭りと勘違いしている不届き者が多かった昨今、裸参りの意義を見直す貴重な年になったのかもしれません。
ただ私が思うことは「裸参りが絶対にいい。裸参りが出来ることは本当に幸せなんだ。」ということ。やはり元気になるには裸参りと「ヨイサヨイサ」の掛け声だと思います。