秀吉

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WBCにかくれて選抜高校野球が始まりました。市内でも北近江戦国浪漫フェスティバルが始まりました。長浜は10年の間に2回大河ドラマの博覧会(秀吉と功名が辻)ができたわけでいい歴史の舞台ですね。最近の若い女性に歴史は人気だとか。私も20年遅く生まれたらよかったのに(笑)

 

 

先日NHKの「そのとき歴史が動いた」が最終回となりました。その中で堺屋太一氏が歴史が動いた時として山崎の合戦を上げておられました。秀吉の人心掌握術などの素晴らしさなどを語っていましたが、堺屋さん原作の平成8年の大河ドラマ「秀吉」で「なるほど。」という場面がありましたので紹介します。

 

秀吉が備中高松城の水攻めのとき本能寺の変で信長が死に、それを知った秀吉が毛利と和睦して、すぐに引き返し、山崎の合戦で明智光秀を破ります。秀吉は後に賤ヶ岳の合戦でも大返しをするのですが、このときも見事でした。毛利に信長の死を知られないうちに和睦して毛利に追いかけられないようにして、大返しをせねばなりません。その交渉の場面。毛利の代表は後に関ヶ原の合戦で西軍につき石田三成と共に京都六条河原で切られる安国寺恵慧でした。

 

ドラマでは秀吉(竹中直人)と恵慧(中条きよし)が和睦交渉。恵慧は急な和睦と入ってくる情報から信長の死を悟ります。しかし、以前に織田信長及び秀吉と面会した時、恵慧は主君の毛利に「信長の性格ではそのうちにひっくり返りましょう、しかし秀吉はさりものとて候(なかなかのやり手、優れた人物)」と伝えています。 

そうして二人の交渉で、秀吉の要求を受け入れて和睦をした恵慧は「まことに秀吉殿は、さりものとて候。」と語り、その場をあとにします。秀吉は深く礼をして送ります。

 

毛利方の立場でいえば信長がなくなったことから、明智光秀とくんで秀吉を挟み撃ちにして高松城を助け、毛利が天下に号令するチャンスでした。恐らく恵慧は、それをする事が出来たであろうと思われます。

しかし、彼は秀吉と毛利3兄弟(毛利隆元、小早川隆景、吉川元春ら)を比較し、天下のため秀吉を選択したのではないでしょうか?この場で秀吉を滅ぼしてもその後に続く戦国の世で天下をとるには3人は秀吉に及ばないであろう。ましてその息子たち(毛利輝元、小早川秀秋、吉川広家)らではなんとも仕方がない。天下のことを考えて、恵慧は秀吉を選択。毛利は毛利元就が中国地方から欲張らずに3本の矢(毛利3兄弟)で守っていくようにの遺言もありました。事実、これを忠実に守った事で幕末に長州藩として大きな活躍をする事になります。

 

このような天下を動かした選択。堺屋太一さんが歴史が動いた大きな場面で山崎の合戦の秀吉の大返しパート1を上げていますが、この場面もその一つではないかと思います。

 

 

 

 

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