ラジオ深夜放送
テーマ:よしなし事
2010/10/30 19:46
いまラジオはどれくらい聴かれているでしょうね。
クルマを運転する時くらいで、もう家にラジオがないという人が多いかもしれません。
ラジオも、広告媒体としての価値が低くなり、いま大変な時期にあるようです。
あの、聴くに堪えない「ラジオ・ショッピング」ばかり増えて、ますますリスナーは減るばかり・・・。
さて、いまの団塊の世代を中心に、当時若者だった人に大人気だったのが、AMラジオの深夜放送でした。
1967年ごろ、それまでのラジオの深夜放送から大きくイメージチェンジして、若者向けの番組が全国で始まりました。
この関西でも、ヤンリク、ヤンタンなどの名物番組が誕生しました。
東京では、パック・イン・ミュージック(TBS)オールナイト・ニッポン(ニッポン放送)セイ・ヤング(文化放送)この3つが全国的な話題となり、人気を競いました。
パーソナリティーは、それぞれの時代にあわせ変わっていきましたが、1967年から82年まで変わらず続いたのが、パック・イン・ミュージクの野沢那智さん白石冬美さんのコンビです。
82年の番組終了時には、反対のデモまで行われています。
その野沢那智さんが、きょう30日亡くなりました。
72歳・・・あまりに早すぎます。
これは、そのパック・イン・ミュージックを紹介したテレビ番組の映像です。
73年から、このラジオ番組のスタッフを合計5年くらい担当させていただきました。
この映像のころは、スタッフを卒業していました。
日本を代表するパーソナリティーに対し、まったくの力不足のスタッフで、迷惑をかけてばかりでした。
つつしんで野沢さんの冥福をお祈りします。
じつは、この番組の先輩ディレクターも先月亡くなったばかり・・・。
2010年は、あまりに寂しい年になりそうです。
クルマを運転する時くらいで、もう家にラジオがないという人が多いかもしれません。
ラジオも、広告媒体としての価値が低くなり、いま大変な時期にあるようです。
あの、聴くに堪えない「ラジオ・ショッピング」ばかり増えて、ますますリスナーは減るばかり・・・。
さて、いまの団塊の世代を中心に、当時若者だった人に大人気だったのが、AMラジオの深夜放送でした。
1967年ごろ、それまでのラジオの深夜放送から大きくイメージチェンジして、若者向けの番組が全国で始まりました。
この関西でも、ヤンリク、ヤンタンなどの名物番組が誕生しました。
東京では、パック・イン・ミュージック(TBS)オールナイト・ニッポン(ニッポン放送)セイ・ヤング(文化放送)この3つが全国的な話題となり、人気を競いました。
パーソナリティーは、それぞれの時代にあわせ変わっていきましたが、1967年から82年まで変わらず続いたのが、パック・イン・ミュージクの野沢那智さん白石冬美さんのコンビです。
82年の番組終了時には、反対のデモまで行われています。
その野沢那智さんが、きょう30日亡くなりました。
72歳・・・あまりに早すぎます。
これは、そのパック・イン・ミュージックを紹介したテレビ番組の映像です。
73年から、このラジオ番組のスタッフを合計5年くらい担当させていただきました。
この映像のころは、スタッフを卒業していました。
日本を代表するパーソナリティーに対し、まったくの力不足のスタッフで、迷惑をかけてばかりでした。
つつしんで野沢さんの冥福をお祈りします。
じつは、この番組の先輩ディレクターも先月亡くなったばかり・・・。
2010年は、あまりに寂しい年になりそうです。
思い出横丁
テーマ:よしなし事
2010/10/30 09:57
♪ むかし話するなんて、気の弱い証拠なのさ~ (大滝詠一 雨のウェンズデイより)
そんな歌がありましたが、たしかに年々気が弱くなっているような・・・。
というわけでもありませんが、またまた昔話ですみません。
今から40年くらい前です。
大学に入って、都心へ遊びに行くといえば、まず新宿でした。
あのころはもちろんまだ副都心どころか、高層ビルさえありません。
新宿駅の西側には、むかし浄水場があったとかで、雑草が目立つ空き地もありました。
そんな時代、その新宿駅西口ちかくに、飲み屋さんとか定食屋さんとか、そういった小さな店がごちゃごちゃと並んでいる、というよりひしめき合っているような一角がありました。
戦後の闇市というのはテレビなどでしか見たことのない世代ですが、そこに行くとなぜか闇市のような雰囲気も味わうことができました。
その一角は、こんな名前で呼ばれていました。
「しょん〇ん横丁」
ちょっと品のない呼び方ですが、その名のとおりどこからともなくそんなニオイが漂ってくることもあります。
新宿で徹夜で遊んだ朝、そこに行って「朝めし」を食べた記憶が今も残っています。
その一角で「飲んだ」という記憶より、その「朝めし」のほうが印象に残っているんですね。
あまり衛生的とは思えないようなお店で、カウンターに座り、焼き魚とか揚げだし豆腐とか、最初から天つゆのかかっているてんぷらとか、よく食べました。
そうやって朝の腹ごしらえをして、小田急線に乗って「下宿」に帰るわけです。
いや、遊んでいたばかりではありません、ちゃんとアルバイトもしました。
あのころは徹夜のアルバイトというのもあって、普通のアルバイトよりバイト代が高かったため、デパートの内装など、よくやりました。
そんな徹夜のバイトの後も、この横丁で朝飯を食べ、下宿に戻り眠る・・・というわけです。
あ、もちろん勉強もしましたよ・・・最初のうちは。
そんなことをやっているうちに、新宿駅の西側はあちこちで工事がおこなわれ、たしか京王プラザホテルがド~~~ンとでき、その後つぎつぎに超高層ビルが建っていきました。
卒業してからは、あちこち引越ししたため、あまり新宿で降りることもなくなり、足も遠のいてしまいました。
そんな「しょん〇ん横丁」も、いまは名前も変わって、こんな名前になっているようです。
思い出横丁
こんな公式サイトもできて、イメージもずいぶん変わったようですね。
何でも、女性一人でも入れるとか・・・。
むかしは我々男でもちょっとためらうような雰囲気もところもありましたけどね~。
それと、外国人観光客が増えているらしいですね。
思い出横丁、東京にお出かけになった折には、ちょっと覗いてみてはいかがですか。
そんな歌がありましたが、たしかに年々気が弱くなっているような・・・。
というわけでもありませんが、またまた昔話ですみません。
今から40年くらい前です。
大学に入って、都心へ遊びに行くといえば、まず新宿でした。
あのころはもちろんまだ副都心どころか、高層ビルさえありません。
新宿駅の西側には、むかし浄水場があったとかで、雑草が目立つ空き地もありました。
そんな時代、その新宿駅西口ちかくに、飲み屋さんとか定食屋さんとか、そういった小さな店がごちゃごちゃと並んでいる、というよりひしめき合っているような一角がありました。
戦後の闇市というのはテレビなどでしか見たことのない世代ですが、そこに行くとなぜか闇市のような雰囲気も味わうことができました。
その一角は、こんな名前で呼ばれていました。
「しょん〇ん横丁」
ちょっと品のない呼び方ですが、その名のとおりどこからともなくそんなニオイが漂ってくることもあります。
新宿で徹夜で遊んだ朝、そこに行って「朝めし」を食べた記憶が今も残っています。
その一角で「飲んだ」という記憶より、その「朝めし」のほうが印象に残っているんですね。
あまり衛生的とは思えないようなお店で、カウンターに座り、焼き魚とか揚げだし豆腐とか、最初から天つゆのかかっているてんぷらとか、よく食べました。
そうやって朝の腹ごしらえをして、小田急線に乗って「下宿」に帰るわけです。
いや、遊んでいたばかりではありません、ちゃんとアルバイトもしました。
あのころは徹夜のアルバイトというのもあって、普通のアルバイトよりバイト代が高かったため、デパートの内装など、よくやりました。
そんな徹夜のバイトの後も、この横丁で朝飯を食べ、下宿に戻り眠る・・・というわけです。
あ、もちろん勉強もしましたよ・・・最初のうちは。
そんなことをやっているうちに、新宿駅の西側はあちこちで工事がおこなわれ、たしか京王プラザホテルがド~~~ンとでき、その後つぎつぎに超高層ビルが建っていきました。
卒業してからは、あちこち引越ししたため、あまり新宿で降りることもなくなり、足も遠のいてしまいました。
そんな「しょん〇ん横丁」も、いまは名前も変わって、こんな名前になっているようです。
思い出横丁
こんな公式サイトもできて、イメージもずいぶん変わったようですね。
何でも、女性一人でも入れるとか・・・。
むかしは我々男でもちょっとためらうような雰囲気もところもありましたけどね~。
それと、外国人観光客が増えているらしいですね。
思い出横丁、東京にお出かけになった折には、ちょっと覗いてみてはいかがですか。