手前味噌
テーマ:よしなし事
2013/06/21 09:52
手前味噌、こどものころ国語の授業でどういう意味か勉強したようなしないような。
むかしは味噌などは自分の家で作っていたので、それぞれの家庭の味があり、ウチのが美味い、いやウチのほうがコクがある、などと自慢し合ったことから、自分で自分をほめることをこんなふうにいうんですよね。
言うまでもなく、ブログなどはその典型といっていいでしょう。
私のものなどは、他人から見れば99パーセント手前味噌かもしれません。
(^_^;)
でも、こういうものはそれで良いのじゃないかと、開き直らないとなかなか続けられないじゃないですか。
それに個人的には、他人の書いた手前味噌ブログを読むのは、とても好きですし。
ところで、この手前味噌が、たとえば新聞やテレビ、ラジオなどのメディアが書いたり放送したりしたらどうでしょう?
もちろん、素直に受け止める人も多いと思いますが、性格が悪いのかひねくれているのか、何か胡散(うさん)臭いものを感じてしまいます。
そこに、どんな素晴らしい内容が書かれていても。
ある新聞の超有名コラムですけど、これを書き写すノートが180万部も売れたとか。
いや、その行為そのものは素晴らしんです。
そうやってきれいな文章を書き写すことによって、読解力があがったり文章が上手になったりするかもしれませんし。
それを趣味としているのなら、それはそれで素晴らしいことでしょう。
しかし、その書き写しを、みずからが取り上げ賛美し、ノートまで作って商売しようというのは、いかがなものでしょうか?
(この表現、議会などではよく耳にしますねwww)
さらに、それをまた自分のところで大々的に記事にする・・・。
こういうのを手前味噌と言わずして何という?
(これも使い古された表現ですがwww)
では、このことをそのコラム風の文章にしてみましょう。
いささか手前みそではあるが、いま〇〇〇〇書きうつしノートが売れている。簡潔にまとめられた文章は、脳トレになるとか試験にも出るなどといわれ、学校でも活用されている▼40年以上前大学生の間で、志賀直哉や三島由紀夫を原稿用紙に書き写すと文章が上手になるという伝説があり、たしかに書き写しをしている仲間もいた▼しかし、当時の仲間で小説家になった人はいない。やはり小説ではなく〇〇〇〇を写さないと効果はないようだ。むろん効果には個人差があり、一概にはいえないが。
むかしは味噌などは自分の家で作っていたので、それぞれの家庭の味があり、ウチのが美味い、いやウチのほうがコクがある、などと自慢し合ったことから、自分で自分をほめることをこんなふうにいうんですよね。
言うまでもなく、ブログなどはその典型といっていいでしょう。
私のものなどは、他人から見れば99パーセント手前味噌かもしれません。
(^_^;)
でも、こういうものはそれで良いのじゃないかと、開き直らないとなかなか続けられないじゃないですか。
それに個人的には、他人の書いた手前味噌ブログを読むのは、とても好きですし。
ところで、この手前味噌が、たとえば新聞やテレビ、ラジオなどのメディアが書いたり放送したりしたらどうでしょう?
もちろん、素直に受け止める人も多いと思いますが、性格が悪いのかひねくれているのか、何か胡散(うさん)臭いものを感じてしまいます。
そこに、どんな素晴らしい内容が書かれていても。
ある新聞の超有名コラムですけど、これを書き写すノートが180万部も売れたとか。
いや、その行為そのものは素晴らしんです。
そうやってきれいな文章を書き写すことによって、読解力があがったり文章が上手になったりするかもしれませんし。
それを趣味としているのなら、それはそれで素晴らしいことでしょう。
しかし、その書き写しを、みずからが取り上げ賛美し、ノートまで作って商売しようというのは、いかがなものでしょうか?
(この表現、議会などではよく耳にしますねwww)
さらに、それをまた自分のところで大々的に記事にする・・・。
こういうのを手前味噌と言わずして何という?
(これも使い古された表現ですがwww)
では、このことをそのコラム風の文章にしてみましょう。
いささか手前みそではあるが、いま〇〇〇〇書きうつしノートが売れている。簡潔にまとめられた文章は、脳トレになるとか試験にも出るなどといわれ、学校でも活用されている▼40年以上前大学生の間で、志賀直哉や三島由紀夫を原稿用紙に書き写すと文章が上手になるという伝説があり、たしかに書き写しをしている仲間もいた▼しかし、当時の仲間で小説家になった人はいない。やはり小説ではなく〇〇〇〇を写さないと効果はないようだ。むろん効果には個人差があり、一概にはいえないが。