権兵衛さんの歴史:1
我々、長浜YEGでは長浜に言い伝わる民話「権兵衛もち」の復刻を行なっているのは、このブログをご覧にの皆さまにはご周知の事でございましょう。
先般の 試作品作り を踏まえまして当委員会にて検証をしております。
その中で、もう少し歴史的な側面からも考えてみようということになりました。
まずは「権兵衛もち」の始まりですが、文献では始まりに関する記述が見当たりません。
権兵衛もちの本家(長浜市田村町)には、池ノ大雅が書いたとされる看板があったそうで、その看板は、旅の途中に池ノ大雅が病を患って多田幸寺に宿泊した際、権兵衛もちの当主が看病し、そのお礼にと書いてもらったという伝承があります。
池ノ大雅 (Wikipedia)より
江戸時代の文化画家で、柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出され、文人画を伝えられた。与謝蕪村とともに、日本の文人画(南画)の大成者とされる。また、書家としても一流である。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富む。
池大雅・楼閣山水図
池ノ大雅が生きたのは1723年〜1776年。有名な画人となったのはおそらく晩年の1700年の半ば以降でありましょう。
このころ(1750年前後)には「権兵衛餅」は既に販売されていたと考えられますので、そこから鉄道長浜駅ができ、北国街道の通行量が減ったとされる明治の半ばまで1900年頃までの250年間(短くとも)、繁栄したと考えられます。
ちょうど消え去ってから100年が経ちます。
「とびきり柔らかく美味しい餅」と街道名物になった権兵衛もちですが、さてどんな味がしたんでしょうか。
歴史はロマン、
権兵衛もちはマロン。だったりはしないと思われます。
まだまだ続きます、このシリーズ。
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