そして蔵ネットへ…
テーマ:電気・電子・光学
2011/04/25 00:02
コブログ限定。
某はかせ程連載するパワーがないので、前半後半のみ(笑)
米国では1978年頃から、日本でも1980年代の前半から、ボチボチと電話回線を使って通信が始まってた。
但し日本はまだ「電電改革三法案」が可決される前のことで、素人が電話を勝手に工事することは御法度。
故に一部のお金持ちのプッシュホンを除いて、一般庶民はダイヤル式黒電話という選択肢の少ない時代。
しかも電話も今みたいにモジュラージャック式ではなく、ローゼットから生えてたのでこれ以上は何も出来ない。。。
なので当時の通信は全て”音響結合方式”、つまり”ピ~ヒョロロ~”ってな音を出してこれで通信しようと言うのである。
通信の仕方は、先ずはジ~コロ、ジ~コロと電話を架けて、繋がると”ピ~ヒョロロ~”という、あのFAXと同じ様な音がするので、ここでおもむろに音響カップラに送受話器を突っ込むのである(笑)
電話は300~3KHz迄の音域を通す規格なので、理論的には1,500bit/秒(bps)の速度で通信することが可能。
であるが、音響結合なので周りの雑音(振動や話し声など)を拾いやすく、通信エラーが起きやすい。
規格としては300bpsと1,200bpsがあったが、音響カプラで1,200bpsは先ず使い物にならず、300bpsが一般的だった。
(厳密にはbaudであるが、ここでは話を簡単にする為にbpsとする)
どの程度の速度かというと、全角(今普通に使ってる)文字が1秒間に15文字流れる…十分目で追える速度。
現在はLAN間通信で100Mbpsが標準なので、概ね33万倍。
光通信で外部に繋ぐと実行で40Mbps程度か?、無線LANでもその1/10程度は出てる筈だから13,000倍くらいか。。。
そんなこんなの障害にもメゲずにマニアは通信をしてたんだけど、私は1984年当時会社の寮にお世話になってた。
当時私の居た寮は、多分ここのブログの諸兄が将来の経営者になるべく修業された下宿に比べれば貧相なもので、そんなことするなんて夢のまた夢。
それでも先輩から「壊れたのでやる!」と言われたOMRONのCP-20という音響カプラを、訳の解らないままオシロで突いてあれこれ触ってたら何故か直った(笑)
「これ使わんテはないやろ」ということで、丁度貰ったPC-8001と一緒に休日の度に会社の事務所にコッソリ忍び込んでは電話を借用して、実験を始めた…1984年末のこと。
何分漢字が使えないのでカナ文字だけだ。
当時はそれも普通だったんだけど、やはり漢字が使える所に入るのは気分が悪かったので(笑)、カナ文字しか使えないJADA西日本という、ヤマト消火器さんがやっていたホスト局に繋いだ。
お客さんが殆ど居なくて、私の実験場と化した(笑)が、中学2年生というM君や同い年のRULGさんが居た。
1985年のGWに引っ越しをして、待望の一人暮らしを始める。
当時バイト暮らしの友人からも鼻で笑われる薄給だったのでとにかく一番安く、しかも確実に入れる所ということで、とある公団に応募した。
築30年超過で、素人の私が見ても「これって学生の宿題?」と思う酷い間取りだったが、取り敢えず毎日通信できる環境が整った。
PC-8001と音響カプラで遊んでいる内に、愛機MZ-80BにCP/Mを移植し、モデムを自作して出ようと画策していたが、CP/Mの移植中にMZが音と煙を出して壊れたので頓挫したのが1985年秋。
でも何故かまた丁度PC-8801を貰ったので、漢字が使える環境になり、京都の伏見区にあったマイクロマイコというホスト局(BBS)に入り浸る。
造り酒屋の息子にしてタウンBBSの開発者で、Appleの本社ビルが見たいだけでアメリカに行った剛の者。
当然話題はMacなので話は通じなかったが、酒飲むのが楽しみでオフ会にはよく参加した(笑)
リンクボードと言って、夜中に他のホスト局のBBSと通信して遠くのBBSと意思疎通できた。
当時は今と違ってネットがインターしてなかったので、繋ぐホスト局のメンバーとしか意思疎通できないのが常識だったので、これは新鮮な驚きだった。
1986年には電話工事担任者アナログ3種の試験に合格した。
なので1,200bpsのモデムを購入して、自分で電話線を引っ剥がしてモジュラージャックに交換。
一気に通信環境が改善したところでいつもの日本橋を歩いていると、黄色いパッケージを発見。
上新電機が主催するパソコンネットワーク。
アクセスポイントが全国にあって、最寄りに繋げば全国のメンバーと意思疎通できる、流石大資本。
他にもニノミヤのジャンボネットやニフティ等雨後の筍のように湧いて出た時代。
いきなり交友範囲が広がり、東京にまでノコノコとオフ会に出向いたりもした、独身で気楽な時代。
ここ(1986年)でCLAYというHN(ハンドルネーム)を考案する。
当時はCRAY(当時世界最速のスーパーコンピュータCRAY1のメーカー)と間違えられたが、最近はGLAYと間違えられることが多い。
これも時代の流れ。
確か1990年にはなってなかった頃、実家に帰って滋賀夕刊を見ていたら「長浜でパソコン通信のホスト局を開設した」という記事を見つけた…これが蔵ネット。
長浜み~なでもちゃんと記事になってる。
取り敢えずメンバー登録してIDを取得するが、大阪から長浜には繋げられないでしょ、従量課金だから。
父親も亡くなって3年程してから実家に戻る…1993年春。
ここで思い出して蔵ネットに繋いだらちゃんと繋がった(笑)
今も残る会員証。
ここからパソコン通信は蔵ネットとJPHメイン。
駅前の某クリニックの医院長(当時は日赤)のPSHICO4さん、その道向かいの食堂の若旦那、彦根の養護学校の先生、そして高月の彼女に会う為に職場と高月の中間の奈良に引っ越したという瀧音さん等々の面々。
オフ会は浪漫ビールその他で何回か。
探したら出てきた(笑)…会員の何方かだろうけど、記憶には無い。
確か1991年にインターネットが一般に開放され、メールが使えるようになっていた筈。
ニフティはいち早くこれに乗り、私が実家に戻ってすぐくらいからインターネットの世界が覗けるようになる。
とは言っても面倒臭い設定と手順を踏んで、高い従量課金で少し見る程度。
なので、電話料金+接続料金を取られるニフティとはさよならして、KDDIに¥500で登録してニフティよりも安い従量課金で接続できるサービスに変更。
この辺りからパソコン通信よりもインターネットの比率が上がっていくのである。
そして待望のWindows95の発売。
いつも書くけど、Appleの方針にはAppleⅡの時代から常に疑問が付き纏う。
私が物造り一筋の職人気質だからかも知れないけど、きっと一生相容れないね。
だから遂にWindowsがMacを超えた瞬間の感想は「やっとここまで来たか。。。」
WindowsをMacのパクリと見る向きもあるけど、Macだって所詮はXeroxのパクリ(正確にはスピンアウト)だ、他人の事は言えまい。
後は皆さんご存じの状況。
某はかせ程連載するパワーがないので、前半後半のみ(笑)
米国では1978年頃から、日本でも1980年代の前半から、ボチボチと電話回線を使って通信が始まってた。
但し日本はまだ「電電改革三法案」が可決される前のことで、素人が電話を勝手に工事することは御法度。
故に一部のお金持ちのプッシュホンを除いて、一般庶民はダイヤル式黒電話という選択肢の少ない時代。
しかも電話も今みたいにモジュラージャック式ではなく、ローゼットから生えてたのでこれ以上は何も出来ない。。。
なので当時の通信は全て”音響結合方式”、つまり”ピ~ヒョロロ~”ってな音を出してこれで通信しようと言うのである。
通信の仕方は、先ずはジ~コロ、ジ~コロと電話を架けて、繋がると”ピ~ヒョロロ~”という、あのFAXと同じ様な音がするので、ここでおもむろに音響カップラに送受話器を突っ込むのである(笑)
電話は300~3KHz迄の音域を通す規格なので、理論的には1,500bit/秒(bps)の速度で通信することが可能。
であるが、音響結合なので周りの雑音(振動や話し声など)を拾いやすく、通信エラーが起きやすい。
規格としては300bpsと1,200bpsがあったが、音響カプラで1,200bpsは先ず使い物にならず、300bpsが一般的だった。
(厳密にはbaudであるが、ここでは話を簡単にする為にbpsとする)
どの程度の速度かというと、全角(今普通に使ってる)文字が1秒間に15文字流れる…十分目で追える速度。
現在はLAN間通信で100Mbpsが標準なので、概ね33万倍。
光通信で外部に繋ぐと実行で40Mbps程度か?、無線LANでもその1/10程度は出てる筈だから13,000倍くらいか。。。
そんなこんなの障害にもメゲずにマニアは通信をしてたんだけど、私は1984年当時会社の寮にお世話になってた。
当時私の居た寮は、多分ここのブログの諸兄が将来の経営者になるべく修業された下宿に比べれば貧相なもので、そんなことするなんて夢のまた夢。
それでも先輩から「壊れたのでやる!」と言われたOMRONのCP-20という音響カプラを、訳の解らないままオシロで突いてあれこれ触ってたら何故か直った(笑)
「これ使わんテはないやろ」ということで、丁度貰ったPC-8001と一緒に休日の度に会社の事務所にコッソリ忍び込んでは電話を借用して、実験を始めた…1984年末のこと。
何分漢字が使えないのでカナ文字だけだ。
当時はそれも普通だったんだけど、やはり漢字が使える所に入るのは気分が悪かったので(笑)、カナ文字しか使えないJADA西日本という、ヤマト消火器さんがやっていたホスト局に繋いだ。
お客さんが殆ど居なくて、私の実験場と化した(笑)が、中学2年生というM君や同い年のRULGさんが居た。
1985年のGWに引っ越しをして、待望の一人暮らしを始める。
当時バイト暮らしの友人からも鼻で笑われる薄給だったのでとにかく一番安く、しかも確実に入れる所ということで、とある公団に応募した。
築30年超過で、素人の私が見ても「これって学生の宿題?」と思う酷い間取りだったが、取り敢えず毎日通信できる環境が整った。
PC-8001と音響カプラで遊んでいる内に、愛機MZ-80BにCP/Mを移植し、モデムを自作して出ようと画策していたが、CP/Mの移植中にMZが音と煙を出して壊れたので頓挫したのが1985年秋。
でも何故かまた丁度PC-8801を貰ったので、漢字が使える環境になり、京都の伏見区にあったマイクロマイコというホスト局(BBS)に入り浸る。
造り酒屋の息子にしてタウンBBSの開発者で、Appleの本社ビルが見たいだけでアメリカに行った剛の者。
当然話題はMacなので話は通じなかったが、酒飲むのが楽しみでオフ会にはよく参加した(笑)
リンクボードと言って、夜中に他のホスト局のBBSと通信して遠くのBBSと意思疎通できた。
当時は今と違ってネットがインターしてなかったので、繋ぐホスト局のメンバーとしか意思疎通できないのが常識だったので、これは新鮮な驚きだった。
1986年には電話工事担任者アナログ3種の試験に合格した。
なので1,200bpsのモデムを購入して、自分で電話線を引っ剥がしてモジュラージャックに交換。
一気に通信環境が改善したところでいつもの日本橋を歩いていると、黄色いパッケージを発見。
上新電機が主催するパソコンネットワーク。
アクセスポイントが全国にあって、最寄りに繋げば全国のメンバーと意思疎通できる、流石大資本。
他にもニノミヤのジャンボネットやニフティ等雨後の筍のように湧いて出た時代。
いきなり交友範囲が広がり、東京にまでノコノコとオフ会に出向いたりもした、独身で気楽な時代。
ここ(1986年)でCLAYというHN(ハンドルネーム)を考案する。
当時はCRAY(当時世界最速のスーパーコンピュータCRAY1のメーカー)と間違えられたが、最近はGLAYと間違えられることが多い。
これも時代の流れ。
確か1990年にはなってなかった頃、実家に帰って滋賀夕刊を見ていたら「長浜でパソコン通信のホスト局を開設した」という記事を見つけた…これが蔵ネット。
長浜み~なでもちゃんと記事になってる。
取り敢えずメンバー登録してIDを取得するが、大阪から長浜には繋げられないでしょ、従量課金だから。
父親も亡くなって3年程してから実家に戻る…1993年春。
ここで思い出して蔵ネットに繋いだらちゃんと繋がった(笑)
今も残る会員証。
ここからパソコン通信は蔵ネットとJPHメイン。
駅前の某クリニックの医院長(当時は日赤)のPSHICO4さん、その道向かいの食堂の若旦那、彦根の養護学校の先生、そして高月の彼女に会う為に職場と高月の中間の奈良に引っ越したという瀧音さん等々の面々。
オフ会は浪漫ビールその他で何回か。
探したら出てきた(笑)…会員の何方かだろうけど、記憶には無い。
確か1991年にインターネットが一般に開放され、メールが使えるようになっていた筈。
ニフティはいち早くこれに乗り、私が実家に戻ってすぐくらいからインターネットの世界が覗けるようになる。
とは言っても面倒臭い設定と手順を踏んで、高い従量課金で少し見る程度。
なので、電話料金+接続料金を取られるニフティとはさよならして、KDDIに¥500で登録してニフティよりも安い従量課金で接続できるサービスに変更。
この辺りからパソコン通信よりもインターネットの比率が上がっていくのである。
そして待望のWindows95の発売。
いつも書くけど、Appleの方針にはAppleⅡの時代から常に疑問が付き纏う。
私が物造り一筋の職人気質だからかも知れないけど、きっと一生相容れないね。
だから遂にWindowsがMacを超えた瞬間の感想は「やっとここまで来たか。。。」
WindowsをMacのパクリと見る向きもあるけど、Macだって所詮はXeroxのパクリ(正確にはスピンアウト)だ、他人の事は言えまい。
後は皆さんご存じの状況。