水没繋がりでもうひとつ
テーマ:ブログ
2012/01/19 00:35
昨日は急な新年会でまたもや終電。
さて、水没と言えばタイも大変ですが、国内も大変。
あの東日本大震災から早や10ヶ月が経過。
お亡くなりになられた方は勿論、被災されて家族や財産や故郷を無くされた方々にはお慰めの言葉もありません。
あの時には何か書くことも憚られたし、また変な突っ込み入れて顰蹙買うのも嫌だし。。。
なんと言っても、ああいう災害の復旧は大変ですからね。
…なんて書くとまた「お前、見たんか!」と突っ込まれそうなんですが、実は見たんです。
もっと局所的で小規模だったのですが、被災後すぐに現地に行って目の当たりにしてきたんですね。
時計はグリグリっと遡って85年、あの安定化電源作ってた頃。
景気は何とか底から這い上がり掛けてた頃で、仕事もまだそれほど忙しくはなかったっけ。
当時は持てる時間の全てを電子工作に費やしたかったけど、会社の尞は体育会系で集中できなかった訳。
なので当時の会社の人事責任者と大喧嘩大人の話し合いをして、5月の連休に寮を出て独り暮らしを開始。
何分当時フリーターの友人にも馬鹿にされる薄給の為、築30年超過で私が見ても「これって、学生の前衛デザインの習作?」と思えるような間取りの格安公団。
それでも漸く独り暮らしをして羽根を伸ばしたか、週に3~4日呑みに歩いていたら2か月程で貯金が底を尽いて大ピンチ!
実家から戻った盆休み明けに、トボトボと出勤の途中に後ろから”ポン!”と肩を叩かれた。
あら、事務所にいらっしゃる設計の責任者の方じゃない?現場の私に何か用?
「○○くん、盆休みに福島の工業団地が水没してね、向こうから工場の復旧要請が来てるけど行ってくれない?手当無しだけど毎日飯は食い放題、ビールも呑み放題!」
後年のアメリカの話でもそうなんだけど、当時のピーピー泣いてる懐具合には渡りに船と、うっかり2つ返事でOKしてるようじゃまだまだ青いぜ。。。
先人の知恵は偉大で、住宅地の無い所は絶対に何かあると思って間違いない。
そういう所に限って空いているから、そこに工業団地作ったりするんですね。
元々危ないと言われつつ、案の定堤防が決壊して1.5m程浸水して、当時ですら何十社も入っていた工業団地が全滅。
まさしく下の震災の時のような状況。
それでも実は本当に大変な所は、盆休みの間に先輩社員達が復旧活動してくれていたみたい。
水面下でワイパーやウィンカーの動く車を見ながら、そのままゴムボートで工場の廊下を漕いで行くとか。。。
水が引いてもプラントなので地下を何mも掘ってあり、ここは消防車を何日も昼夜運転して水を吸い上げたり。。。
私はその後に入ったのでまだマシだったけど、それでも酷い有り様。
ご飯を食べながらこれを読んでる人(んな人は居ないか)には恐縮だけど、当時は下水の普及率も低くて田んぼの○溜めから汚物が流れ込んで壁に残ってる(しかも目の高さ…)ので凄い悪臭!
ある程度の枠組み作って、後は少々ケツが青かろうが嘴が黄色かろうが、体力のある奴を数まとめて放り込んだら何とかやるやろ状態。
ということで、私達がここへ放り込まれること数週間…もうそれこそあちこちの工場に全国から人が集まってた。
ビール呑み放題って…実は人間そんなに呑めるもんじゃない。
初日こそ大瓶5本や6本は呑めるけど、日に日に少なくなって1週間もすれば1~2本が精々。
おまけに流通まで不具合が出たのか、おかずは毎晩鮪の刺身。。。
でも仕事は延々終わらない…毎日マイクロバスにぎゅうぎゅう詰めにされて旅館と工場の往復…まるでカマやん。
おまけに小売りの業者はこれ幸いにと、「どう考えてもこんなん使わへんやろ?」という資材を勝手にじゃんじゃん置いて行く。。。
なので、今やっているであろう復旧の状態もあの時とあまり変わらないんじゃないかと想像付く。
今回もまた被災しているけど、途中でもまだあったみたい。。。
おまけに美談とされているこのニュース。
実はこれも非常に怖い話。
私は外部から復旧要員で入ったけど、現地の被災された会社員等は十中八九家は犠牲にして会社最優先…そういう時代でしたから。
一緒に復旧作業していた人も家は半壊、車は水没、おまけに新婚さんなのに会社に来てた。
あの道路も、現地の人たちの血の滲むような苦労の上に復旧してるんじゃないだろうかと、つい思っちゃう。
多分今自分がその立場でもそうするだろうしね…そういう教育受けてる人間だから。。。
そしてその頃にプラザ合意…狂乱のバブル景気の始まり。
漸くケツの青さも嘴の黄色さも薄れてきたと思われたか、仕事が忙しくて出来損ないでも使わないと人手が足りなくなってきたか(多分後者)、仕事も段々とひとりで任されるようになり、年間数十日はホテル泊、酷い時には週3回も大阪~東京間を往復する(当時携帯電話はなかったから)という、冗談のような人生に突入して行くんですね。
さて、水没と言えばタイも大変ですが、国内も大変。
あの東日本大震災から早や10ヶ月が経過。
お亡くなりになられた方は勿論、被災されて家族や財産や故郷を無くされた方々にはお慰めの言葉もありません。
あの時には何か書くことも憚られたし、また変な突っ込み入れて顰蹙買うのも嫌だし。。。
なんと言っても、ああいう災害の復旧は大変ですからね。
…なんて書くとまた「お前、見たんか!」と突っ込まれそうなんですが、実は見たんです。
もっと局所的で小規模だったのですが、被災後すぐに現地に行って目の当たりにしてきたんですね。
時計はグリグリっと遡って85年、あの安定化電源作ってた頃。
景気は何とか底から這い上がり掛けてた頃で、仕事もまだそれほど忙しくはなかったっけ。
当時は持てる時間の全てを電子工作に費やしたかったけど、会社の尞は体育会系で集中できなかった訳。
なので当時の会社の人事責任者と大喧嘩大人の話し合いをして、5月の連休に寮を出て独り暮らしを開始。
何分当時フリーターの友人にも馬鹿にされる薄給の為、築30年超過で私が見ても「これって、学生の前衛デザインの習作?」と思えるような間取りの格安公団。
それでも漸く独り暮らしをして羽根を伸ばしたか、週に3~4日呑みに歩いていたら2か月程で貯金が底を尽いて大ピンチ!
実家から戻った盆休み明けに、トボトボと出勤の途中に後ろから”ポン!”と肩を叩かれた。
あら、事務所にいらっしゃる設計の責任者の方じゃない?現場の私に何か用?
「○○くん、盆休みに福島の工業団地が水没してね、向こうから工場の復旧要請が来てるけど行ってくれない?手当無しだけど毎日飯は食い放題、ビールも呑み放題!」
後年のアメリカの話でもそうなんだけど、当時のピーピー泣いてる懐具合には渡りに船と、うっかり2つ返事でOKしてるようじゃまだまだ青いぜ。。。
先人の知恵は偉大で、住宅地の無い所は絶対に何かあると思って間違いない。
そういう所に限って空いているから、そこに工業団地作ったりするんですね。
元々危ないと言われつつ、案の定堤防が決壊して1.5m程浸水して、当時ですら何十社も入っていた工業団地が全滅。
まさしく下の震災の時のような状況。
それでも実は本当に大変な所は、盆休みの間に先輩社員達が復旧活動してくれていたみたい。
水面下でワイパーやウィンカーの動く車を見ながら、そのままゴムボートで工場の廊下を漕いで行くとか。。。
水が引いてもプラントなので地下を何mも掘ってあり、ここは消防車を何日も昼夜運転して水を吸い上げたり。。。
私はその後に入ったのでまだマシだったけど、それでも酷い有り様。
ご飯を食べながらこれを読んでる人(んな人は居ないか)には恐縮だけど、当時は下水の普及率も低くて田んぼの○溜めから汚物が流れ込んで壁に残ってる(しかも目の高さ…)ので凄い悪臭!
ある程度の枠組み作って、後は少々ケツが青かろうが嘴が黄色かろうが、体力のある奴を数まとめて放り込んだら何とかやるやろ状態。
ということで、私達がここへ放り込まれること数週間…もうそれこそあちこちの工場に全国から人が集まってた。
ビール呑み放題って…実は人間そんなに呑めるもんじゃない。
初日こそ大瓶5本や6本は呑めるけど、日に日に少なくなって1週間もすれば1~2本が精々。
おまけに流通まで不具合が出たのか、おかずは毎晩鮪の刺身。。。
でも仕事は延々終わらない…毎日マイクロバスにぎゅうぎゅう詰めにされて旅館と工場の往復…まるでカマやん。
おまけに小売りの業者はこれ幸いにと、「どう考えてもこんなん使わへんやろ?」という資材を勝手にじゃんじゃん置いて行く。。。
なので、今やっているであろう復旧の状態もあの時とあまり変わらないんじゃないかと想像付く。
今回もまた被災しているけど、途中でもまだあったみたい。。。
おまけに美談とされているこのニュース。
実はこれも非常に怖い話。
私は外部から復旧要員で入ったけど、現地の被災された会社員等は十中八九家は犠牲にして会社最優先…そういう時代でしたから。
一緒に復旧作業していた人も家は半壊、車は水没、おまけに新婚さんなのに会社に来てた。
あの道路も、現地の人たちの血の滲むような苦労の上に復旧してるんじゃないだろうかと、つい思っちゃう。
多分今自分がその立場でもそうするだろうしね…そういう教育受けてる人間だから。。。
そしてその頃にプラザ合意…狂乱のバブル景気の始まり。
漸くケツの青さも嘴の黄色さも薄れてきたと思われたか、仕事が忙しくて出来損ないでも使わないと人手が足りなくなってきたか(多分後者)、仕事も段々とひとりで任されるようになり、年間数十日はホテル泊、酷い時には週3回も大阪~東京間を往復する(当時携帯電話はなかったから)という、冗談のような人生に突入して行くんですね。