浅井長政寄進の刀と太刀、小谷城脇門の扉、血痕付きの雑兵の帷子等本物を展示、3D 的な映像シアターで姉川合戦を再現、江誕生・落城・脱出場面をジオラマで表現するなど、日本宝くじ協会の資金提供を受け、全面的改装のなった「浅井歴史民俗資料館」へお越しください。
几帳面な伊能忠敬と伊部本陣
テーマ:江戸時代
2012/11/24 07:56
国内をくまなく歩き日本全図を完成させた伊能忠敬が、几帳面なことは誰でも想像がつきます。
当然ながら、忠敬は測量の途次、詳細な日記をつけています。何時、どこへ泊まり、何をしたのか、そして宿で出たご馳走についても記録しています。
企画展「北国脇往還」に関連して展示されている、伊部本陣肥田家文書にも、これまた当然ながら詳細な記録が残されています。その中には、何時、だれが泊まり、どんな料理を出したかについても、書かれています。
伊能忠敬は大名ではありませんが、幕府の命で測量しており、各地の本陣で宿泊を許され、伊部本陣にも泊まっています。
この日の?この夜の?食事の記録が、伊能忠敬の日記と、伊部本陣の記録とが一致するというのです。
これぞ、同時代文書がダブルで見つかるという正真正銘の歴史記録といえます。
なお、各大名は参勤交代に際して、料理人を連れ主たる食材は持参していたそうで、本陣は不足する食材だけ調達していたことも読み取れると伊部本陣の現当主が話してくださいました。
写真 展示中の伊部本陣海道帳、本文に該当する部分ではありません。
当然ながら、忠敬は測量の途次、詳細な日記をつけています。何時、どこへ泊まり、何をしたのか、そして宿で出たご馳走についても記録しています。
企画展「北国脇往還」に関連して展示されている、伊部本陣肥田家文書にも、これまた当然ながら詳細な記録が残されています。その中には、何時、だれが泊まり、どんな料理を出したかについても、書かれています。
伊能忠敬は大名ではありませんが、幕府の命で測量しており、各地の本陣で宿泊を許され、伊部本陣にも泊まっています。
この日の?この夜の?食事の記録が、伊能忠敬の日記と、伊部本陣の記録とが一致するというのです。
これぞ、同時代文書がダブルで見つかるという正真正銘の歴史記録といえます。
なお、各大名は参勤交代に際して、料理人を連れ主たる食材は持参していたそうで、本陣は不足する食材だけ調達していたことも読み取れると伊部本陣の現当主が話してくださいました。
写真 展示中の伊部本陣海道帳、本文に該当する部分ではありません。
「下総」と「上総」のこと
テーマ:江戸時代
2012/11/21 07:29
「上総」と「下総」、これは、「かづさ」「しもうさ>」と読み、ともに千葉県の旧国名です。
滋賀県は「近江」一国ですが、千葉県はこの「上総」と「下総」、それに「安房(あわ)」の3国から成り立っています。
この3国、茨城県、東京都よりに「下総」、続いてその南に「上総」があります。地図で、上下は言わないにしても、上が「下総」、下が「上総」ということになります。
その理由は、都、京都に近いか遠いかで決まっています。
それでも、京都から東海道が日本橋まで来ていて、その後を歩いたとすると、どっちが近いか遠いかはっきりしています。どう考えても、「下総」にあたる地域が近いはずです。
その答えは、何か?
東海道が整備される以前は、東海道に海上交通の海路も含まれていたといいます。従って、江戸時代以前の関東方面との交通は海路の方が栄えていたそうです。
この海路を使うと、「下総」より「上総」の方が京都に近くなるということです。これで、一件落着ですね。
滋賀県は「近江」一国ですが、千葉県はこの「上総」と「下総」、それに「安房(あわ)」の3国から成り立っています。
この3国、茨城県、東京都よりに「下総」、続いてその南に「上総」があります。地図で、上下は言わないにしても、上が「下総」、下が「上総」ということになります。
その理由は、都、京都に近いか遠いかで決まっています。
それでも、京都から東海道が日本橋まで来ていて、その後を歩いたとすると、どっちが近いか遠いかはっきりしています。どう考えても、「下総」にあたる地域が近いはずです。
その答えは、何か?
東海道が整備される以前は、東海道に海上交通の海路も含まれていたといいます。従って、江戸時代以前の関東方面との交通は海路の方が栄えていたそうです。
この海路を使うと、「下総」より「上総」の方が京都に近くなるということです。これで、一件落着ですね。
お隣だから余計ややこしい
テーマ:あれこれ
2012/11/17 08:15
この夏、みちのく秘境めぐりツアーに参加しました。
旅程表に、前日に、五能線沿線の「十二湖」、翌日は「十三湖」が下車観光地になっていました。ともに、青森県の観光地です。
ちなみに、「十二湖」は、これもややこしいのですが、実際は三十数個ある湖が、ある地点からは十二個見えるのでその名がついたといいます。
この十二個の十二湖の中でも、群を抜いて美しいのが「青池」と呼ばれる湖(池)です。今もって、その美しさの理由はあきらかでないといいます。その池の水のコバルトブルーというのか濃い藍色は、今までにどこでも見たことのない、月並み過ぎて恥ずかしいですが、言葉では言い尽くせません。
是非一度と、どなたにもお薦めしたくなる観光スポットです。太陽光の加減もあるようで、日によるとも・・・。
ところで、翌日訪れた「十三(じゅうさん)湖)」ですが、これはたった一つの湖が、そう呼ばれます。シジミ漁で有名なこの湖の十三とは、13の河川が流れ込んで出来た湖だからだそうで、十三湖は(とさこ)と呼ばれていました。
ところが、元禄13(1700)年に、津軽家5代藩主・津軽信寿が土佐守に任じられたことから、それをはばかって「十三」は「とさ」から「じゅうさん」というハイカラな?言い方に改めたといいます。
かつて繁栄した湊町・十三も大津波や洪水などによって、砂山が残るだけになってしまったといいますが、この湖畔で食べた「しじみソフト」は、予想外に美味しいものでした。
写真 上 「青池」 下「十三湖」 都合により、ネットから拝借
旅程表に、前日に、五能線沿線の「十二湖」、翌日は「十三湖」が下車観光地になっていました。ともに、青森県の観光地です。
ちなみに、「十二湖」は、これもややこしいのですが、実際は三十数個ある湖が、ある地点からは十二個見えるのでその名がついたといいます。
この十二個の十二湖の中でも、群を抜いて美しいのが「青池」と呼ばれる湖(池)です。今もって、その美しさの理由はあきらかでないといいます。その池の水のコバルトブルーというのか濃い藍色は、今までにどこでも見たことのない、月並み過ぎて恥ずかしいですが、言葉では言い尽くせません。
是非一度と、どなたにもお薦めしたくなる観光スポットです。太陽光の加減もあるようで、日によるとも・・・。
ところで、翌日訪れた「十三(じゅうさん)湖)」ですが、これはたった一つの湖が、そう呼ばれます。シジミ漁で有名なこの湖の十三とは、13の河川が流れ込んで出来た湖だからだそうで、十三湖は(とさこ)と呼ばれていました。
ところが、元禄13(1700)年に、津軽家5代藩主・津軽信寿が土佐守に任じられたことから、それをはばかって「十三」は「とさ」から「じゅうさん」というハイカラな?言い方に改めたといいます。
かつて繁栄した湊町・十三も大津波や洪水などによって、砂山が残るだけになってしまったといいますが、この湖畔で食べた「しじみソフト」は、予想外に美味しいものでした。
写真 上 「青池」 下「十三湖」 都合により、ネットから拝借
ちょっと、心残り!
テーマ:あれこれ
2012/11/15 07:25
私たちの田根荘では、「子ども見守り隊」が組織され、手すきの者が登下校を見守っています。
この日、小2の孫娘に少し着いてゆくと、ちょっぴり邪魔にならない程度の小雨が降ってきました。先を見ると、同級生の男の子が、コウモリをさして行くのが見えました。コウモリは、通学には普通には許されていません。
孫娘が、「カバンの中にカッパがあるか調べて!」と言うので、見ましたがありません。取りに帰って、自転車で追っかけますと、男の子が待っていてくれたのか孫が追いついたのか、二人が相合傘で、ニコニコ喋りながら歩いて行くのが見えます。
長い竹の塀の続く道に、二人の小学生の相合傘、前後に誰もいません。
一瞬、カメラを取りに帰ろうかとは思ったのですが、不思議な写真が残るのもいいのかどうかとも思い、そのまま追いついて、家にカッパのなかったことを伝えました。前日が、長浜城近くへの校外学習のせいでしょうか、全くの偶然、二人とも同じ日にカッパを忘れたことになります。
こんな可愛いことが出来るのは小2だからで、集合場所へ行ったら上級生に冷やかされることだろうなと、ちょっと気になりましたが丁度いい具合に雨が上がってきました。
私の姿を見て、恥ずかしそうに男の子から離れた孫娘に、追っかけるように傘を傾けて差し掛けてくれている男の子のやさしさに、なんともいえない幸せを感じさせてもらったひと時でした。
こんな偶然、2度となく、ブログ用にいい写真が撮れたのにと残念に思う反面、これで良かったんかもと自分を慰めています。
写真 申し訳ありませんが、ネットからお借りしました。「素敵な芸術写真」です。でも、実際はもっと親しげに歩いていました。
この日、小2の孫娘に少し着いてゆくと、ちょっぴり邪魔にならない程度の小雨が降ってきました。先を見ると、同級生の男の子が、コウモリをさして行くのが見えました。コウモリは、通学には普通には許されていません。
孫娘が、「カバンの中にカッパがあるか調べて!」と言うので、見ましたがありません。取りに帰って、自転車で追っかけますと、男の子が待っていてくれたのか孫が追いついたのか、二人が相合傘で、ニコニコ喋りながら歩いて行くのが見えます。
長い竹の塀の続く道に、二人の小学生の相合傘、前後に誰もいません。
一瞬、カメラを取りに帰ろうかとは思ったのですが、不思議な写真が残るのもいいのかどうかとも思い、そのまま追いついて、家にカッパのなかったことを伝えました。前日が、長浜城近くへの校外学習のせいでしょうか、全くの偶然、二人とも同じ日にカッパを忘れたことになります。
こんな可愛いことが出来るのは小2だからで、集合場所へ行ったら上級生に冷やかされることだろうなと、ちょっと気になりましたが丁度いい具合に雨が上がってきました。
私の姿を見て、恥ずかしそうに男の子から離れた孫娘に、追っかけるように傘を傾けて差し掛けてくれている男の子のやさしさに、なんともいえない幸せを感じさせてもらったひと時でした。
こんな偶然、2度となく、ブログ用にいい写真が撮れたのにと残念に思う反面、これで良かったんかもと自分を慰めています。
写真 申し訳ありませんが、ネットからお借りしました。「素敵な芸術写真」です。でも、実際はもっと親しげに歩いていました。
亀塚古墳図からNo.2
テーマ:あれこれ
2012/11/12 16:37
続きです。
この図を描いた人のことについて、この図では、「慶長六年十二月三日 御代官日下氏画之」とあります。
御代官日下氏と、「御」が付き、「氏」が付いていて、代官の描いた図を模写したことが分かりますし、この日付は、代官が描いた日のことと考えるべきでしょう。
当然ながら、慶長六年より後の人が模写したものです。(その意味では、当館展示の解説パネルの年号は、ちょっと気になりますが・・・。)
それと、代官の名が、「日下氏」とありますが、この地の代官として名を残す人、また、慶長年間に代官だった人は、「日下部善助」が知られており、模写した人が、写し間違いをしたものと思われます。
代官様のお名前を間違えるなんて、由々しきミスをすることから考えて、この模写は相当後の世の人が行ったと考えるべきだと思います。
この日下部善助は、以前「宿場免許の争奪戦に敗れる」(2012.8.31)で紹介した、尊勝寺村を栄えさせた人であり、慶長6年(1601)、徳川家康が本願寺の力を削ぐため教如を本願寺の門跡に復帰させる前、この地域に五村別院を建てた時、中心になった人物です。
写真 当館主催「北国脇往還を歩く」での亀塚付近、太田先生が説明中です。
この図を描いた人のことについて、この図では、「慶長六年十二月三日 御代官日下氏画之」とあります。
御代官日下氏と、「御」が付き、「氏」が付いていて、代官の描いた図を模写したことが分かりますし、この日付は、代官が描いた日のことと考えるべきでしょう。
当然ながら、慶長六年より後の人が模写したものです。(その意味では、当館展示の解説パネルの年号は、ちょっと気になりますが・・・。)
それと、代官の名が、「日下氏」とありますが、この地の代官として名を残す人、また、慶長年間に代官だった人は、「日下部善助」が知られており、模写した人が、写し間違いをしたものと思われます。
代官様のお名前を間違えるなんて、由々しきミスをすることから考えて、この模写は相当後の世の人が行ったと考えるべきだと思います。
この日下部善助は、以前「宿場免許の争奪戦に敗れる」(2012.8.31)で紹介した、尊勝寺村を栄えさせた人であり、慶長6年(1601)、徳川家康が本願寺の力を削ぐため教如を本願寺の門跡に復帰させる前、この地域に五村別院を建てた時、中心になった人物です。
写真 当館主催「北国脇往還を歩く」での亀塚付近、太田先生が説明中です。