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戦場の音が聞こえる!

テーマ:終戦記念展
終戦記念展は、皆様のご支援をいただき、とどこおりなく終了いたしました。
さすが、10回目、楽しみにしていたと、お越しいただいた方もありました。しかし、年々、戦争を体験された方のご来館は少なくなって来ているように思います。

戦争を知らない子どもたち」だらけの世の中になり、この終戦記念展の意義、役割は、さらに高まってきていると言わなければなりません。

今回の展示には、戦場から届いた生々しい遺品の数々も含まれていました。戦地で身につけておられたと思える「千人針」「腕時計」「手帳」「戦陣訓」などなどです。

今回の展示に、寺師町の故藤田徳三氏の「戦地から父母への遺書」がありました。この中には、父母、兄弟への厚い思いが綴られていることは当然ですが、戦場の生々しい音も伝わってきます。

「目の前で味方の兵隊が敵弾に当たり飛び散るのを見ると泣けてきます。」
「敵は、四方から攻め込み、数十メートル近くでは大砲の玉が炸裂しています。大隊長も中隊長も戦死されました。」


また、私の父の手帳に、
「弾丸雨飛ノ中デ、一夜ヲ明カス。壕ノ上1尺余リノ所ヲ盛ンニ飛ビ、ホントニ気持ノ良イモノデハナイ。」と、死亡した日に書かれています。

その手帳の、次の行には、戦友の誰かの手で、「昭和12年10月27日 午後5時0分 敵弾の為 戦死」と、あります。また、次のページから4枚にわたり、ぎっしりと、日常の人となりから戦死の状況までを克明に記してあります。

戦場の静寂も含め、様々な音が想像されます。

覚悟の出征

テーマ:終戦記念展
終戦記念展に長浜市郷野町の故田中保雄さんが出征に当たって書かれた遺書が展示されています。

昭和18年1月3日、田中さんは、20歳で戦地へ赴かれます。その際、自らの決意や家族への思いをしたため、お仏壇の引き出しに残して家を出てゆかれます。このことは、お姉さんだけに告げられていました。

遺書は、父母様、兄殿、姉殿、妹殿と、6人に当てて、墨書で細々と思いの丈を書き込んでおかれます。

父母には、国家のために奉仕できる日が来たこと、丈夫な体に育ててもらったことに対する感謝を述べ、父母に恥をかかすような死に方はしません、出征後は最早家に無き者と思ってくれるようにと決意の程を記しています。
には、父母の孝養は自分の分もと頼み、5代目田中家を受け継ぎご先祖様を守ってくれるよう依頼しています。
には、どうか良き縁があれば、早々に嫁いで良き日本婦人として仕えてください。
には、妹二人共仲良くして早く大きくなって父母に孝行してください。などと、記しています。

村をあげての出征行列で華やかに送った後、これらの遺書を見られた家族は、涙、涙であったと伝えられています。

田中さんは、翌19年11月6日、レイテで戦死されますが、戦死公報が届いたのは3年後の昭和22年9月30日だったそうです。その間、お母さんは毎日、靴音がしたり、風で物音がすると「保雄が帰ってきたのでは!」と、耳をすまされていたといいます。

写真 故田中保雄さんが出征に当たって書かれた遺書

終戦記念展は、9月2日迄です。お早めにお越しください。

「御逮夜(年忌法要)記念巻物」とは?

テーマ:終戦記念展
「御逮夜(年忌法要)記念巻物」と銘打たれた巻物が展示されています。

旧浅井町が誕生した後、かなり長期にわたって浅井町長を務められた方に樋口恒男さがおられます。この方が、若くして出征された際、奥さんがご主人のために、お逮夜に参詣された方々に励ましの、慰問のメッセージを書いてもらわれ、軍港舞鶴に留まっておられたご主人に送られたものです。

巻物の冒頭には、奥様があまりにも美しい細筆書きで、法要に際して皆さんに書いてもらったことを報告しておられます。中でも、「ご主人様のために・・・・・」と、へりくだった書き方をしてあることが印象的でした。

法事には、老若男女様々な方々が参詣され、個性豊かに文章を書き、絵を描いておかれます。中には、文字が書けずに絵だけを描いた子、たどたどしいひらがなだけの子、格調の高い名文、俳句、激励文と、様々です。

何よりも感心することは、この全長5メートルに及ぶ紙に、何名の人の名があるでしょうか、そのどの人も、誰一人、ペン、鉛筆はなく墨と筆でしっかりとした文字を書いておられるということです

たまたま、現在「秀忠」書状と東福門院(江の娘和子・御水尾天皇中宮)」書状が展示されていて、その美しさに圧倒されていますが、その流れは昭和のこの時代まで連綿と引き継がれて来ていたといってもよいのかもしれません。

今、こんな依頼があっても、しり込みして誰一人筆を取る人はいないはずです。

どうなる!箕面の釣鐘・・・

テーマ:終戦記念展
9月12日に箕面の釣鐘が、どうして!」という記事を書きました。

戦時中、箕面市内の神社にあった釣鐘が供出され、戦後不思議な因縁で、当資料館のすぐ近くの寺に買われて来ていました。その後、新しい鐘を鋳造されることになり、元の持ち主に連絡を取られましたが、話が整わず、やむなく当資料館預かりとなっていました。

過去にも、2回ほど、神社側からの依頼があり間に入ったこともありましたが、今度は逆にこちらの事情で沙汰止みになっていました。

ずいぶん年月も経過したので・・・・と、再度の接触があり、寺と当館への来訪となりました。

前回の記事に、ある方からこんなコメントも頂いていました。
この釣鐘さん、やっぱり○○○村へ帰りたいんじゃないかなぁ~?生まれ故郷から、お迎えが来ていると聞いたら、ジッとしていられないよ~~!!」
Re.コメに「私も、間に入ったことがありましたが、残念ながら成り立ちませんでした。もう少し、時間がかかるのかもしれません。でも、貴女のような温かな気持ち、そうしたモノを背景に、そのうち・・・・・・。」

果たして、この間の時間は、どのように作用するのでしょうか?気になる、ところです。

この○○○村、その地域では、よき伝統のある近在に知られた村と聞いています。少し昔、テレビCMに子どもたちとともに「戸締り用心、火の用心!」と拍子木を叩きながら出ていた大富豪の出身地でもあります。

連合自治会の会長さんなど地域の有力者がご来館、釣鐘に対面され、しばし帰郷を語りかけておられるご様子でした。

写真 釣鐘と対面される箕面市○○○自治会代表の皆さん





涙の釣鐘・宮鉦献納、証拠写真

テーマ:終戦記念展
昨日、大阪箕面の釣鐘がこの浅井の地のお寺に納まり、当館に移ってきている事情について書きました。

その最大の問題点は、由緒ある春日神社の釣鐘が、戦争協力の名目で供出させられたという点にあります。全国各地から膨大な数の釣鐘等の供出が強制されました。

たまたま、私たちの旧村田根村には、その決定的な証拠写真が残っています。今では、セピア色に変色していますが、田根村の寺々や神社から集められた釣鐘・半鐘・宮鉦(担ぎながら神前で叩き参詣する)が、ずらりと並んでいます。

この写真は、供出するに当たって仏式で法要が営まれたような設営がされ、村長を前にして最後に撮られた記念写真です。敵国降伏という幟旗も見えます。私の家の前で、この式典が行われていたのですが、私はここに写っている少年たちより幼く(4歳頃)、この場面は知りません。

ただ、私たちの寺の釣鐘が、高い釣鐘堂から下ろされ、斜めに作られた長いスロープを転がして下まで運ばれたことは、強烈な印象として残っています。

その後、その場面を再現するため、竿秤(さおばかり)の重い分銅(ふんどう)を釣鐘に見立て、ソロバンを斜めに立てかけ、そこを転がす遊びに夢中だったことは今も明確に覚えています。

我が家の近くの式内波久奴神社の神宮寺にあり村の時報鐘として使用されていた釣鐘も、立派なものだったと伝わりますが同時に供出されています。

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プロフィール

SirMurai

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浅井歴史民俗資料館を応援しています。歴史好き、建築好き、世界遺産好きです。
HP「江たち浅井三姉妹とお市物語」へもどうぞ。

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