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五先賢海北友松(ゆうしょう)の友情

テーマ:戦国時代
この秋、小堀遠州四酔会と田根郷土史研究会の共催で「五先賢を京都に探る旅」が企画されました。

「湖山」に関わって「妙心寺」、「遠州」に関わって「金地院」と巡り、最後は「海北友松」の菩提所である「真如堂」を訪れました。

「友松」が、浅井家の家臣「海北善右衛門綱親」の五男で、父の戦死後唯一仏門に入り生き延び、画才を認められ狩野派に学んだことは有名です。今回の旅でも、あちこちで友松の作品を目にし、さすが武門の血を引く友松ならではの筆の跡を確認することができました。

何よりも、興味深かったことは、親交のあった明智光秀の重臣「斎藤利三」の墓と「海北友松」の墓が、ぴったりと隣り合わせに建っていたことでした。

明智光秀の謀反により、親友であった「斎藤利三」が本能寺跡で、その首をさらされていました。それを知った海北友松は、その首を見張りの武士に槍を突きつけ奪い去ったと伝わっています。

この時、長陽坊長盛という仲間の僧侶が大きな声で読経し、注意を逸らしたともいわれ、その僧が住職を務める真如堂に葬ったのです。友松は、自分が死んだらこのそばに葬ってくれるよう遺言し、この写真の通りになったというお話でした。

画家とはいえ、さすが武士の流れを汲む友松らしい武勇伝と聞かせてもらった次第です。

写真 京都真如堂にある二人の墓、手前が「斎藤利三」、奥が「海北友松」の墓です。妙な写真ですみません。 

早いもん勝ち

テーマ:戦国時代
決定が遅れていて、もしかすると打ち切りかと噂されていた、再来年のNHK大河ドラマのテーマが決まりました。

三成か、光秀かとも言われましたが、なんと、「軍師官兵衛」秀吉の参謀役として全国統一に大きな役割を果たした黒田孝高(よしたか)、黒田如水です。

その発表の直後に、早速、写真のようなのぼり旗が当館にも届けられました。華やかな右側の大河博のものと違って、白黒の簡素なものですが、言いたいことが直截的に書かれています。

軍師官兵衛の黒田家発祥の地としての近江国伊香郡黒田村(現長浜市木之本町黒田)にあやかり、大きくこの地域を、もう一度売り込もうとする意図ありありです

昨年の大河ドラマ「姫たちの戦国ー江たち三姉妹」関連で130万人もの来場者を得て、今年、市長の肝いりで「二匹目のドジョウ」を捕まえんとしましたが、残念ながら思ったほど獲れませんでした。

そこへ、今回の話です。がっかりしていた長浜が飛びつかないはずはありません。「三匹目のドジョウ」捕獲作戦の開始です。

皮肉っぽく書いていますが、当館こそ、それに便乗、「戦国大河ふるさと博」フィナーレイベントとして、NHKチーフプロデューサーを迎え「戦国武将と軍師官兵衛」と題する講演会を開催することになっています。

この黒田出身説も、「寛永諸家系図伝」には書かれているものの、その後の文書にはなく、疑問視されてもいます。旧長浜市の西黒田学区も、名乗りをあげるとか、賑やかになりそうです。

写真 当館に立てられた「のぼり旗」、中央奥は郷土学習用「あずまや」建設工事の様子です。

たんのしょうのこと

テーマ:戦国時代
今回の展示替えで、新しくお目見えした資料の1つに、「姉川合戦場図」という姉川合戦を描いた絵図があります。

この絵図は、琵琶湖や姉川などの水系を薄茶色で表現し、様々な街道が朱色で明瞭に描かれています。また、合戦の様子も詳細になっていたりして、一見すると過去に紹介した蓬左文庫の「姉川御合戦絵図」や当館で以前から展示中の「姉川合戦絵図」とは全く別物のようにも見えます。

ところが、姉川合戦から79年後の慶安元年に描かれているとか、郷人がハシゴ山で見物していたという記述があったりして、同一の絵図が元になっていることがわかります。

おそらく、蓬左文庫のものが基本になり、多くの写本が作られたものと思われます。

ただし、今回の「姉川合戦古絵図」には、私たち田根地区の者にとっては前の二図と違った興味ある発見がありました。

それは、我が地区あたりを流れ出す川に「谷ノ庄川」と書かれていたことです。私たちの地区が「田根荘」と書いて「たんのしょう」と呼ばれてきたことは既に触れていますが、その証拠を歴史上確認することは出来ていませんでした。

「谷ノ庄」を、「たねのしょう」と読むのは無理があり、「たにのしょう」即ち「たんのしょう」と読むほうが自然だと、妙に納得した次第です。

この絵図にのみ、この表現があるということは、これが我がふるさとに近い所で描かれたものと言えるのではないかと考えています。

写真 展示中の「姉川合戦場図」、9月13日の写真と比較していただくと、類似点や違いがわかると思います。
拡大写真は、ココログ「江たち3姉妹とお市」をご参照ください。

秀吉拝領の甲冑

テーマ:戦国時代
我が家の親戚○○家の蔵に、秀吉拝領の甲冑があると噂されてきました。見せてもらった人、有無を確認した人が、いるのかいないのか私は知りません


もともと、この甲冑は称名寺(長浜市尊勝寺町・湖北十ヶ寺の一つ)に伝わったものだといいます。

賤ケ岳合戦前夜、軍を進めてきた秀吉が、この寺に逗留します。その際、作戦会議で、「ここより北に馬上(まけ)という村がある。OR、この先に北馬上(きたまけ)という村がある。」という説明を、称名寺の住職がしたそうです。

それを聞いた秀吉が、「北の負け」に通ずると大いに喜び、称名寺に甲冑を与えたというのです。

その後、称名寺が経済的に苦しみ、○○家に多額の借金をし、その返済ができず、そのカタに甲冑が移ったといいます。

甲冑の存在からして、危ういものですし、これらの話の信ぴょう性はどの程度あるのか分かりませんが、称名寺の借金のくだりを、同級生の專ちゃんから今回の小学校の同窓会旅行で聞いたもんですから、ご紹介いたしました。

写真 ○○家のものではありません。ネットから借用しました。秀吉から梶原家が賜った具足です。

信長は「神の使い」「天の使い」?

テーマ:戦国時代
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの著書における日本の戦国時代については、度々触れてきました。

元亀争乱の頃は、信長にとっては危急存亡の大変な時期でした。いうまでもなく、「反信長包囲網」が成立し、将軍義昭が全国に反信長の指示を出したり、本願寺があちこちで一揆を起こしたり、比叡山、朝倉氏、浅井氏、三好氏の反抗、背後からは、武田信玄の侵攻と、四方八方に敵を抱えていました。


そうした中で、信長は比叡山焼き討ちを行い、僧のみならず女子供まで皆殺しにし、一向一揆にも長浜のさいかち浜での虐殺、大吉寺攻撃などを始め、かなりひどい仕打ちをします

わが国では、信長のことを神仏を恐れぬ、極悪非道の残忍な人物と評します。

しかし、ルイス・フロイスは、この信長を「天の使い、神の使い」と表現しています。
立場変われば・・・・・で、邪教である仏教徒を懲らしめる信長を、イエス様のための良き行為者と評価しているのです。

信長さんも、まさかローマ法王さんが喜んでくれるとは思ってはいなかったでしょうね。

写真 当館に掲出されている「元亀争乱勢力図」
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プロフィール

SirMurai

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浅井歴史民俗資料館を応援しています。歴史好き、建築好き、世界遺産好きです。
HP「江たち浅井三姉妹とお市物語」へもどうぞ。

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