井伊直弼が虎姫へやって来た!
テーマ:江戸時代
2012/12/09 08:27
私たちの田根荘を源流とする「田川」(過日、砂山として紹介した川です。)は、江戸時代琵琶湖の船が虎御前山の麓の丸山港まで登って来るという川でした。その「田川」は、虎姫学区で「高時川」の下をくぐっています。
これを、「田川カルバート」といい、そのハイカラな名前からしても、本格的な工事は明治中頃滋賀県がお雇い外国人技師を使い建設したものです。
当初、「田川」は「高時川」に合流していたのですが、「高時川」の川底は年々上昇し、天井川の様相を呈し、「田川」の水がうまく流れ込まず、少し雨が降れば付近で溢れ出し、田んぼはもちろんのこと、近くを通る「北国街道」も水没してしまうという有様でした。大名行列なども、船や筏を利用することもあったといいます。
この水を吐く方法として、この川の下を川がくぐるというアイディアが生まれ、江戸時代から地域の人々の悲願として訴えられ、様々な曲折を経て、挑戦し続けられてきました。
嘉永3年(1850)、虎姫4カ村は領主に願い出、下流の庄屋に打診するところからスタートしました。しかし、容易に進む話ではありません。
安政2年(1855)、4カ村が大津役所宛に嘆願書を出しています。
その一節に「拾ヶ年之内七八ヶ年ハ水腐、(収穫)皆無ニ・・・・・」、「去ル子年井伊掃部頭様御順在之儀有之其筋前段村々土地柄見分之上御慈悲之思召ヲ以右悪水引取方御配慮彼成下・・・・・・。」と、あります。
嘉永5年(1852)「子年」に井伊直弼が情況検分のために來村していたことが分かります。
万延元年(1860)井伊大老が「桜田門外の変」で刺されるまで、あと8年です・・・・・・。
文久2年(1862)工事完成、明治3年改修嘆願書、明治13年御雇外人技師調査明治18年改修竣工、明治25年改修工事竣工、昭和4年、昭和31年、昭和36年改修、昭和41年鉄筋コンクリート製2連カルバート竣工
写真 「田川カルバート」の現在 上流虎姫学区側から 滋賀県HPより
これを、「田川カルバート」といい、そのハイカラな名前からしても、本格的な工事は明治中頃滋賀県がお雇い外国人技師を使い建設したものです。
当初、「田川」は「高時川」に合流していたのですが、「高時川」の川底は年々上昇し、天井川の様相を呈し、「田川」の水がうまく流れ込まず、少し雨が降れば付近で溢れ出し、田んぼはもちろんのこと、近くを通る「北国街道」も水没してしまうという有様でした。大名行列なども、船や筏を利用することもあったといいます。
この水を吐く方法として、この川の下を川がくぐるというアイディアが生まれ、江戸時代から地域の人々の悲願として訴えられ、様々な曲折を経て、挑戦し続けられてきました。
嘉永3年(1850)、虎姫4カ村は領主に願い出、下流の庄屋に打診するところからスタートしました。しかし、容易に進む話ではありません。
安政2年(1855)、4カ村が大津役所宛に嘆願書を出しています。
その一節に「拾ヶ年之内七八ヶ年ハ水腐、(収穫)皆無ニ・・・・・」、「去ル子年井伊掃部頭様御順在之儀有之其筋前段村々土地柄見分之上御慈悲之思召ヲ以右悪水引取方御配慮彼成下・・・・・・。」と、あります。
嘉永5年(1852)「子年」に井伊直弼が情況検分のために來村していたことが分かります。
万延元年(1860)井伊大老が「桜田門外の変」で刺されるまで、あと8年です・・・・・・。
文久2年(1862)工事完成、明治3年改修嘆願書、明治13年御雇外人技師調査明治18年改修竣工、明治25年改修工事竣工、昭和4年、昭和31年、昭和36年改修、昭和41年鉄筋コンクリート製2連カルバート竣工
写真 「田川カルバート」の現在 上流虎姫学区側から 滋賀県HPより
伊部本陣に無い真ん中の川
テーマ:江戸時代
2012/11/27 08:51
あちこちの宿場町の古図や写真を見ると、街道の真ん中に川が流れています。
これは、宿場を利用する旅人が足を洗い、馬を洗うために使用したものと思われます。
木之本宿でも、昭和10年ころまで、道路の真ん中に水路があることが、写真からもわかります。むしろ、その頃まで残っていたこと自体が、不思議だとも思えますが・・・。
その後、交通量の増加、自動車の普及などから、この水路は埋設され道路を広く使うようになってきました。
ところで、伊部本陣の場合は、どうでしょう。
江戸時代末期(文政年間)の伊部宿家数絵図を見ると、中央水路は描かれていません。一体どうなっているのでしょうか。
答えは、伊部本陣の場合、小谷山、雲雀山からの豊かな水量の川が幾筋もあり、街道を横断する形で流れているのです。
この絵図を詳しく見ると、何と街道を6箇所にわたって横切る川があり、それぞれに「はし」と書かれています。
街道に沿う川の場合、汚れた水が下流に流れることになりますが、横断する場合は絶えず美しい水が流れ込むという利点があります。
ただ、「はし」とあることは、蓋があるわけで使用する際にはそれを上げる必要があり、うまく元に戻しておかないと暗い夜道で川にはまる人が出ないのか・・・下世話な心配をしています。
写真 上 昭和10年頃の木之本宿(山路酒造さんご提供) 下 伊部宿家数絵図(文政3年1862)上が西です
これは、宿場を利用する旅人が足を洗い、馬を洗うために使用したものと思われます。
木之本宿でも、昭和10年ころまで、道路の真ん中に水路があることが、写真からもわかります。むしろ、その頃まで残っていたこと自体が、不思議だとも思えますが・・・。
その後、交通量の増加、自動車の普及などから、この水路は埋設され道路を広く使うようになってきました。
ところで、伊部本陣の場合は、どうでしょう。
江戸時代末期(文政年間)の伊部宿家数絵図を見ると、中央水路は描かれていません。一体どうなっているのでしょうか。
答えは、伊部本陣の場合、小谷山、雲雀山からの豊かな水量の川が幾筋もあり、街道を横断する形で流れているのです。
この絵図を詳しく見ると、何と街道を6箇所にわたって横切る川があり、それぞれに「はし」と書かれています。
街道に沿う川の場合、汚れた水が下流に流れることになりますが、横断する場合は絶えず美しい水が流れ込むという利点があります。
ただ、「はし」とあることは、蓋があるわけで使用する際にはそれを上げる必要があり、うまく元に戻しておかないと暗い夜道で川にはまる人が出ないのか・・・下世話な心配をしています。
写真 上 昭和10年頃の木之本宿(山路酒造さんご提供) 下 伊部宿家数絵図(文政3年1862)上が西です
几帳面な伊能忠敬と伊部本陣
テーマ:江戸時代
2012/11/24 07:56
国内をくまなく歩き日本全図を完成させた伊能忠敬が、几帳面なことは誰でも想像がつきます。
当然ながら、忠敬は測量の途次、詳細な日記をつけています。何時、どこへ泊まり、何をしたのか、そして宿で出たご馳走についても記録しています。
企画展「北国脇往還」に関連して展示されている、伊部本陣肥田家文書にも、これまた当然ながら詳細な記録が残されています。その中には、何時、だれが泊まり、どんな料理を出したかについても、書かれています。
伊能忠敬は大名ではありませんが、幕府の命で測量しており、各地の本陣で宿泊を許され、伊部本陣にも泊まっています。
この日の?この夜の?食事の記録が、伊能忠敬の日記と、伊部本陣の記録とが一致するというのです。
これぞ、同時代文書がダブルで見つかるという正真正銘の歴史記録といえます。
なお、各大名は参勤交代に際して、料理人を連れ主たる食材は持参していたそうで、本陣は不足する食材だけ調達していたことも読み取れると伊部本陣の現当主が話してくださいました。
写真 展示中の伊部本陣海道帳、本文に該当する部分ではありません。
当然ながら、忠敬は測量の途次、詳細な日記をつけています。何時、どこへ泊まり、何をしたのか、そして宿で出たご馳走についても記録しています。
企画展「北国脇往還」に関連して展示されている、伊部本陣肥田家文書にも、これまた当然ながら詳細な記録が残されています。その中には、何時、だれが泊まり、どんな料理を出したかについても、書かれています。
伊能忠敬は大名ではありませんが、幕府の命で測量しており、各地の本陣で宿泊を許され、伊部本陣にも泊まっています。
この日の?この夜の?食事の記録が、伊能忠敬の日記と、伊部本陣の記録とが一致するというのです。
これぞ、同時代文書がダブルで見つかるという正真正銘の歴史記録といえます。
なお、各大名は参勤交代に際して、料理人を連れ主たる食材は持参していたそうで、本陣は不足する食材だけ調達していたことも読み取れると伊部本陣の現当主が話してくださいました。
写真 展示中の伊部本陣海道帳、本文に該当する部分ではありません。
「下総」と「上総」のこと
テーマ:江戸時代
2012/11/21 07:29
「上総」と「下総」、これは、「かづさ」「しもうさ>」と読み、ともに千葉県の旧国名です。
滋賀県は「近江」一国ですが、千葉県はこの「上総」と「下総」、それに「安房(あわ)」の3国から成り立っています。
この3国、茨城県、東京都よりに「下総」、続いてその南に「上総」があります。地図で、上下は言わないにしても、上が「下総」、下が「上総」ということになります。
その理由は、都、京都に近いか遠いかで決まっています。
それでも、京都から東海道が日本橋まで来ていて、その後を歩いたとすると、どっちが近いか遠いかはっきりしています。どう考えても、「下総」にあたる地域が近いはずです。
その答えは、何か?
東海道が整備される以前は、東海道に海上交通の海路も含まれていたといいます。従って、江戸時代以前の関東方面との交通は海路の方が栄えていたそうです。
この海路を使うと、「下総」より「上総」の方が京都に近くなるということです。これで、一件落着ですね。
滋賀県は「近江」一国ですが、千葉県はこの「上総」と「下総」、それに「安房(あわ)」の3国から成り立っています。
この3国、茨城県、東京都よりに「下総」、続いてその南に「上総」があります。地図で、上下は言わないにしても、上が「下総」、下が「上総」ということになります。
その理由は、都、京都に近いか遠いかで決まっています。
それでも、京都から東海道が日本橋まで来ていて、その後を歩いたとすると、どっちが近いか遠いかはっきりしています。どう考えても、「下総」にあたる地域が近いはずです。
その答えは、何か?
東海道が整備される以前は、東海道に海上交通の海路も含まれていたといいます。従って、江戸時代以前の関東方面との交通は海路の方が栄えていたそうです。
この海路を使うと、「下総」より「上総」の方が京都に近くなるということです。これで、一件落着ですね。
悲劇の北国道道標物語
テーマ:江戸時代
2012/11/03 08:04
大河ドラマ「江」博覧会の「浅井ふるさとドラマ館」近くに「北国道」「左元三大師誕生所」と、彫られた道標があります。
江戸方向から、北国脇往還を北進してきた旅人に左方向へ向かえば、元三大師の生まれた「玉泉寺」に行けることを示しています。
これは、「西国三十三ヶ所巡拝」にやって来た人たちにが、岐阜谷汲の三十三番札所華厳寺から三十二番札所竹生島宝巌寺へ行く間に、折角近くまで来ているので当時(御籤等でも)有名だった元三大師にゆかりのある寺へも立ち寄るよう薦める標識だそうです。
「西国三十三ヶ所巡拝」や「新西国三十三ヶ所巡拝」に挑戦したことがあります。その際「西国」の意味を深く考えることはなかったのですが、明らかに、関東の人が「西国」と呼んで旅をしたことは明白です。この道標にも建設者名としてでしょう「江戸住人」と彫られています。
道路改良により、この道標はGS西のコンビニあたりから4、50メートル東へ移動していますし、元々の石標は事故で根元から折れ鉄束で固定していた時期がありました。ところが、再び、行方不明となり根元だけが残っています。おそらく、豪雪時に、除雪車によってなぎ倒され、そのまま草野川に雪とともに捨てられたのだろうというのが、役場スズメのもっぱらの噂でした。
その後、不幸なこの道標は、一度作り直されたまでは良いのですが、彫った文字に間違いがあり、再度作り直されたという悲しい過去があります。(一説には、彫り直されたとも。)
写真 当館歴史探訪「北国脇往還を歩く」の一行が、「悲劇の道標」を見学中です。
江戸方向から、北国脇往還を北進してきた旅人に左方向へ向かえば、元三大師の生まれた「玉泉寺」に行けることを示しています。
これは、「西国三十三ヶ所巡拝」にやって来た人たちにが、岐阜谷汲の三十三番札所華厳寺から三十二番札所竹生島宝巌寺へ行く間に、折角近くまで来ているので当時(御籤等でも)有名だった元三大師にゆかりのある寺へも立ち寄るよう薦める標識だそうです。
「西国三十三ヶ所巡拝」や「新西国三十三ヶ所巡拝」に挑戦したことがあります。その際「西国」の意味を深く考えることはなかったのですが、明らかに、関東の人が「西国」と呼んで旅をしたことは明白です。この道標にも建設者名としてでしょう「江戸住人」と彫られています。
道路改良により、この道標はGS西のコンビニあたりから4、50メートル東へ移動していますし、元々の石標は事故で根元から折れ鉄束で固定していた時期がありました。ところが、再び、行方不明となり根元だけが残っています。おそらく、豪雪時に、除雪車によってなぎ倒され、そのまま草野川に雪とともに捨てられたのだろうというのが、役場スズメのもっぱらの噂でした。
その後、不幸なこの道標は、一度作り直されたまでは良いのですが、彫った文字に間違いがあり、再度作り直されたという悲しい過去があります。(一説には、彫り直されたとも。)
写真 当館歴史探訪「北国脇往還を歩く」の一行が、「悲劇の道標」を見学中です。