浅井長政寄進の刀と太刀、小谷城脇門の扉、血痕付きの雑兵の帷子等本物を展示、3D 的な映像シアターで姉川合戦を再現、江誕生・落城・脱出場面をジオラマで表現するなど、日本宝くじ協会の資金提供を受け、全面的改装のなった「浅井歴史民俗資料館」へお越しください。
亀塚絵図から分かること
テーマ:あれこれ
2012/11/09 09:12
正式には「右大臣中臣金之連御陵図」と題された、この図には興味ある記述があります。
その一つは、この古墳の存在する八島村(町)について、近江国浅井郡湯次郷田根荘八島村とあることです。
おそらく、古代の郷里制のもとでは、この八島村は内保、大路、三田などとともに「湯次郷」に含まれ、その後やってくる荘園制の時代には高畑、木尾、谷口などの集落とともに「田根荘」と呼ばれたものと思われます。その時期に、「波久奴神社」の祭も成立し、明治の市町村制の下、「田根村」と分離して「湯田村」となった後にも、祭の催行だけは田根村グループと一緒に行っています。
また、この図に「田根八幡宮」とあり、その近くに「神輿塚」なるものが描かれています。
「波久奴神社」の祭では、現在は「神輿」を境内で巡行した後、近くの「御旅所」にもどります。古くは、自町まで重い神輿を担いで帰っていたといいます.
八島村は、神社から遠くて、不満に思った村人は、神輿を返すことを拒否したといいます。どういう事情だったのか分かりませんが(おそらく、他に重大な理由があったものと思われます・・・。)そのまま、神輿を地中に埋めてしまったそうです。
そこが塚になっていて、頂上部に大きな石が押えとして置いてあったといいます。それが、この図に描かれている「神輿塚」だというのです。
いささか、あやふやな話ですが、この図を伝来されたご当家の方からお聞きした話です。
写真 現在、企画展で展示中の「右大臣中臣金之連御陵図」、掛け軸に表装されています。
その一つは、この古墳の存在する八島村(町)について、近江国浅井郡湯次郷田根荘八島村とあることです。
おそらく、古代の郷里制のもとでは、この八島村は内保、大路、三田などとともに「湯次郷」に含まれ、その後やってくる荘園制の時代には高畑、木尾、谷口などの集落とともに「田根荘」と呼ばれたものと思われます。その時期に、「波久奴神社」の祭も成立し、明治の市町村制の下、「田根村」と分離して「湯田村」となった後にも、祭の催行だけは田根村グループと一緒に行っています。
また、この図に「田根八幡宮」とあり、その近くに「神輿塚」なるものが描かれています。
「波久奴神社」の祭では、現在は「神輿」を境内で巡行した後、近くの「御旅所」にもどります。古くは、自町まで重い神輿を担いで帰っていたといいます.
八島村は、神社から遠くて、不満に思った村人は、神輿を返すことを拒否したといいます。どういう事情だったのか分かりませんが(おそらく、他に重大な理由があったものと思われます・・・。)そのまま、神輿を地中に埋めてしまったそうです。
そこが塚になっていて、頂上部に大きな石が押えとして置いてあったといいます。それが、この図に描かれている「神輿塚」だというのです。
いささか、あやふやな話ですが、この図を伝来されたご当家の方からお聞きした話です。
写真 現在、企画展で展示中の「右大臣中臣金之連御陵図」、掛け軸に表装されています。
亀塚古墳の持ち主は誰?
テーマ:あれこれ
2012/11/06 07:58
このほど、当館ふるさと歴史探訪で、開催中の企画展に協賛し「北国脇往還を歩く」が実施されました。好天に恵まれ、案内人長浜城の太田さんの名調子に聞き惚れながら、内保町から馬上町までを歩きました。
その途中、現在展示中の「亀塚絵図」に描かれている「亀塚」前に立ちました。私的に言えば、中学時代の自転車通学路沿いで毎日眺めていた古墳です。
全長10mほどの、ホントに小ぢんまりした、でも前方後円墳の形をしっかり残し、しっかり整備された見るからに可愛い?古墳です。
これは、壬申の乱で敗北した近江朝廷側の中臣連金(なかとみのむらじかね)の墳墓と伝わっています。日本書紀に「中臣連金を田根で斬る」とあり、田根荘の名が国史に初めて登場する事件です。
ところで、この古墳は、誰の持ち物かご存知でしょうか?
京都に在住のかつて京都植物園の園長もされた公家につながる○○家が所有していると聞いたことがあります。
京都植物園も戦前は、たしか恩賜京都植物園であって皇室につながるものでした。その園長を、公家の方が・・・・・、京都の公家が現在もそうした皇室関連の施設に勤めておられることは当然のことかもしれませんが、興味あることです。
ところで、この古墳が○○家の所有になったのも、明治初年全国の天皇陵が整理された際、余ったものを分けてもらわれたと考えるのは、少々うがった考えに過ぎるでしょうか。
写真 「亀塚古墳」(長浜市八島町、珍しく西側から撮ってみました。}
その途中、現在展示中の「亀塚絵図」に描かれている「亀塚」前に立ちました。私的に言えば、中学時代の自転車通学路沿いで毎日眺めていた古墳です。
全長10mほどの、ホントに小ぢんまりした、でも前方後円墳の形をしっかり残し、しっかり整備された見るからに可愛い?古墳です。
これは、壬申の乱で敗北した近江朝廷側の中臣連金(なかとみのむらじかね)の墳墓と伝わっています。日本書紀に「中臣連金を田根で斬る」とあり、田根荘の名が国史に初めて登場する事件です。
ところで、この古墳は、誰の持ち物かご存知でしょうか?
京都に在住のかつて京都植物園の園長もされた公家につながる○○家が所有していると聞いたことがあります。
京都植物園も戦前は、たしか恩賜京都植物園であって皇室につながるものでした。その園長を、公家の方が・・・・・、京都の公家が現在もそうした皇室関連の施設に勤めておられることは当然のことかもしれませんが、興味あることです。
ところで、この古墳が○○家の所有になったのも、明治初年全国の天皇陵が整理された際、余ったものを分けてもらわれたと考えるのは、少々うがった考えに過ぎるでしょうか。
写真 「亀塚古墳」(長浜市八島町、珍しく西側から撮ってみました。}
悲劇の北国道道標物語
テーマ:江戸時代
2012/11/03 08:04
大河ドラマ「江」博覧会の「浅井ふるさとドラマ館」近くに「北国道」「左元三大師誕生所」と、彫られた道標があります。
江戸方向から、北国脇往還を北進してきた旅人に左方向へ向かえば、元三大師の生まれた「玉泉寺」に行けることを示しています。
これは、「西国三十三ヶ所巡拝」にやって来た人たちにが、岐阜谷汲の三十三番札所華厳寺から三十二番札所竹生島宝巌寺へ行く間に、折角近くまで来ているので当時(御籤等でも)有名だった元三大師にゆかりのある寺へも立ち寄るよう薦める標識だそうです。
「西国三十三ヶ所巡拝」や「新西国三十三ヶ所巡拝」に挑戦したことがあります。その際「西国」の意味を深く考えることはなかったのですが、明らかに、関東の人が「西国」と呼んで旅をしたことは明白です。この道標にも建設者名としてでしょう「江戸住人」と彫られています。
道路改良により、この道標はGS西のコンビニあたりから4、50メートル東へ移動していますし、元々の石標は事故で根元から折れ鉄束で固定していた時期がありました。ところが、再び、行方不明となり根元だけが残っています。おそらく、豪雪時に、除雪車によってなぎ倒され、そのまま草野川に雪とともに捨てられたのだろうというのが、役場スズメのもっぱらの噂でした。
その後、不幸なこの道標は、一度作り直されたまでは良いのですが、彫った文字に間違いがあり、再度作り直されたという悲しい過去があります。(一説には、彫り直されたとも。)
写真 当館歴史探訪「北国脇往還を歩く」の一行が、「悲劇の道標」を見学中です。
江戸方向から、北国脇往還を北進してきた旅人に左方向へ向かえば、元三大師の生まれた「玉泉寺」に行けることを示しています。
これは、「西国三十三ヶ所巡拝」にやって来た人たちにが、岐阜谷汲の三十三番札所華厳寺から三十二番札所竹生島宝巌寺へ行く間に、折角近くまで来ているので当時(御籤等でも)有名だった元三大師にゆかりのある寺へも立ち寄るよう薦める標識だそうです。
「西国三十三ヶ所巡拝」や「新西国三十三ヶ所巡拝」に挑戦したことがあります。その際「西国」の意味を深く考えることはなかったのですが、明らかに、関東の人が「西国」と呼んで旅をしたことは明白です。この道標にも建設者名としてでしょう「江戸住人」と彫られています。
道路改良により、この道標はGS西のコンビニあたりから4、50メートル東へ移動していますし、元々の石標は事故で根元から折れ鉄束で固定していた時期がありました。ところが、再び、行方不明となり根元だけが残っています。おそらく、豪雪時に、除雪車によってなぎ倒され、そのまま草野川に雪とともに捨てられたのだろうというのが、役場スズメのもっぱらの噂でした。
その後、不幸なこの道標は、一度作り直されたまでは良いのですが、彫った文字に間違いがあり、再度作り直されたという悲しい過去があります。(一説には、彫り直されたとも。)
写真 当館歴史探訪「北国脇往還を歩く」の一行が、「悲劇の道標」を見学中です。
新蔵品の特別展示です
テーマ:淺井三代
2012/10/31 06:49
この度、長浜城歴史博物館が新しく手にいれた「浅井長政関連史料」が、当館で初公開されます。
この文書「浅井長政書状」は、姉川合戦の翌年の5月5日、長政が家臣の阿閉甲斐守に対して発した書状です。内容は、子息五郎右衛門を初め家臣が討ち死にしたことについて慰め、今後織田信長との戦いが収束した段階で、恩賞等を与えるとした感状です。さらに、長政は、子息が討ち死にした関係で、阿閉家の跡目をしっかり立てるべきことを助言しています。
この文書は、浅井長政が姉川合戦について触れた、現存する唯一のものといえます。
特筆すべきことは、長政が姉川合戦のことを「辰鼻表合戦」と呼び、「姉川合戦」と書いてないところです。「姉川合戦」は、後の徳川幕府によって権現様のご威光をたかめる(浅井応援団としては、秀忠夫人の江の親元も美化したかった)ため、かなり誇張されたものとの推論の根拠の一つと考えることも出来ます。
なお、この宛先の阿閉甲斐守が、山本山を守り寝返った阿閉貞征とどういう関係にあったのかは、現段階では分かっていないそうです。
どこかの古物商から手に入ったそうですが、お値段は近く記者発表されるとか・・・、お楽しみに。
写真 今回、初お目見えとなった「浅井長政書状」
この文書「浅井長政書状」は、姉川合戦の翌年の5月5日、長政が家臣の阿閉甲斐守に対して発した書状です。内容は、子息五郎右衛門を初め家臣が討ち死にしたことについて慰め、今後織田信長との戦いが収束した段階で、恩賞等を与えるとした感状です。さらに、長政は、子息が討ち死にした関係で、阿閉家の跡目をしっかり立てるべきことを助言しています。
この文書は、浅井長政が姉川合戦について触れた、現存する唯一のものといえます。
特筆すべきことは、長政が姉川合戦のことを「辰鼻表合戦」と呼び、「姉川合戦」と書いてないところです。「姉川合戦」は、後の徳川幕府によって権現様のご威光をたかめる(浅井応援団としては、秀忠夫人の江の親元も美化したかった)ため、かなり誇張されたものとの推論の根拠の一つと考えることも出来ます。
なお、この宛先の阿閉甲斐守が、山本山を守り寝返った阿閉貞征とどういう関係にあったのかは、現段階では分かっていないそうです。
どこかの古物商から手に入ったそうですが、お値段は近く記者発表されるとか・・・、お楽しみに。
写真 今回、初お目見えとなった「浅井長政書状」
孫が浮気 保育園へ
テーマ:あれこれ
2012/10/28 07:29
外孫の保育園の運動会に行きました。
以前から、不思議な名前の保育園だなとは思っていましたが、目の前のテントに「浮気」と、大きな字で堂々と書かれていると、改めて奇妙な感じになりました。
「浮気」の読み方は、「うわき」ではありません。「ふけ」と読みます。
単なる地名なのに、異常に反応するのは、何か心当たりがあるから、やましいところがあるのではないかと疑われそうですが、関係ありませんので、念のため・・・。
「浮気」は、守山市にある町名です。守山駅の東口辺りから展開しています。
そもそも、歴史を紐解くと、鎌倉時代に北条一族が入植し、開拓したことに始まり、彼らは浮気氏を名乗り、浮気城を築いて土着したといいます。
この浮気城は、琵琶湖大橋道路とJR東海道線が交差する地点から東へおよそ300m南沿いにある住吉神社がそれです。
この「浮気氏」は、戦国時代元亀争乱の際、六角氏と組んで織田信長に抗戦しており、戦国ブログのテーマとして決して不似合いなものではないのです。
運動会に、沢山の若い保護者たちが押しかけていましたが、この中に、この保育園名にドッキリしている人が何人いるかなと、不謹慎なことを考えていました。
以前から、不思議な名前の保育園だなとは思っていましたが、目の前のテントに「浮気」と、大きな字で堂々と書かれていると、改めて奇妙な感じになりました。
「浮気」の読み方は、「うわき」ではありません。「ふけ」と読みます。
単なる地名なのに、異常に反応するのは、何か心当たりがあるから、やましいところがあるのではないかと疑われそうですが、関係ありませんので、念のため・・・。
「浮気」は、守山市にある町名です。守山駅の東口辺りから展開しています。
そもそも、歴史を紐解くと、鎌倉時代に北条一族が入植し、開拓したことに始まり、彼らは浮気氏を名乗り、浮気城を築いて土着したといいます。
この浮気城は、琵琶湖大橋道路とJR東海道線が交差する地点から東へおよそ300m南沿いにある住吉神社がそれです。
この「浮気氏」は、戦国時代元亀争乱の際、六角氏と組んで織田信長に抗戦しており、戦国ブログのテーマとして決して不似合いなものではないのです。
運動会に、沢山の若い保護者たちが押しかけていましたが、この中に、この保育園名にドッキリしている人が何人いるかなと、不謹慎なことを考えていました。