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淀殿はスーパーモデル級!

テーマ:三姉妹
北里大学の平本嘉助氏と郷土史家の矢崎勝巳氏の共同研究で、歴史上の人物の身長を想定することが可能になったと報ぜられました。

肖像画の着物(襟巾など)、持ち物などから、身長を割り出すというのです。

とはいいながら、当時の人は、手足が短いし、肩幅もなで肩で、無理だという意見もあるようです。

でも、一応、それに従うと、なんと、淀殿(茶々)の身長は、168センチくらいになるそうです。当時の女性の平均身長が、140センチ台半ばくらいとされていて、今で言えば、180センチを越すスーパーモデル級のバディであったと想像されています。

秀吉は、小柄で知られていますので、元モーニング娘の矢口真里(144.5cm)と俳優中村昌也(192cm)程ではないとしても、ずいぶん身長差のあるカップルだったといえます。

淀殿のお父さん、浅井長政も180センチという情報もありますので、決して、間違った想定でもないのかも知れません。

顔はともかく(淀さんごめん!)、そんなスレンダーな肢体を想像すると、なんか小谷城にいた頃、見に行っといたら良かったと思っています。

写真 男女が逆で、申し訳ありませんが、矢口真里と中村昌也カップルです。




珠姫の旦那は、鼻毛を伸ばしすぎ

テーマ:三姉妹
豊臣家の最有力大名であり、声望もあった前田利家は、一時は家康と対立するかの状況に立たされますが、対決の道を捨てその膝下に屈して自家の存続を図ります。

利家の跡を継いだ不敗の名将利長も、大老職をゆだねられ秀頼の後見人になります。再び、家康との対決気運が高まりますが、平和の人利長は人質を出すなど、衝突を回避します。

関ヶ原の決戦では、利長はためらわず家康を応援、家康は最大限の謝意を表します。そして、利長の跡継ぎの利常に、何と秀忠と「江」のw僅か3歳の娘「珠姫」を嫁がせることを約束、近江高島郡などの土地を恩賞として与え、利長は119万2700石という全国最大の大大名におどりでたのです。

こうして、じわじわと幕藩体制の中に取り込まれて行きますが、この時代、大名の改易が盛んに行われ、前田藩も戦々兢々のの日々が続きます。謀叛の噂も飛んだり・・・・・。

いつの頃からか、「珠姫」の旦那で勇猛、知的な名君利常は、鼻毛を伸ばし放題にして、家臣をヤキモキさせたといいます。また、江戸城中で酒井忠勝に陰嚢を見せたという話も伝わっています。

これらは、百万石を守るために、あえて凡庸な君主を演技していたという見方が一般的です。殿様も、なかなか、大変だったといわねばなりません。

二条城で家康と出会った秀頼も、こうした演技力があると、歴史はもう少し違ったものになっていたかもしれません。

またまた春日局の意地悪発見!

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お初(常高院)が、遺体を何日がかりになることも覚悟の上で、小浜まで運ばせて荼毘に伏させます。
よほど、若き日に高次とともに過ごした小浜の光景が忘れられなかったのでしょうか。

小浜は、琵琶の湖に似た風景で・・・という人がいますが、それは、こじつけ、近江の人がいつも琵琶湖を目にしていたわけではありません。やっぱり、小浜大好きという初の気持ちの表れというべきです。

慶長五年(1600)関ヶ原の戦いの後、京極高次は遠慮がちに小浜城をもらい、初とともにブルーベリーアイを食べたかどうかは知りませんが、幸せな若狭生活を過ごします。そして、わずか9年後に高次が亡くなり、「初」は出家し常高院となります。

その後、跡を継いだ京極忠高は、寛永十一年(1634)小浜の倍以上の石高、松江二十六万石に大栄進します。石見銀山の支配も任されるという破格の扱いです。

寛永十四年(1637)忠高が死んだ後、嫡男がいなかった京極家は一旦改易されてしまいます。今まで、なんとどんくさい、チャンと養子縁組をしておいたらいいのに・・・・・と、考えていました。

ところがです。養子の件については、以前から春日局に口頭で願い出ておいたのに、握りつぶされたという話があるそうです。「江」に対するこの乳母春日局の屈折した感情を見て取ることが出来ます。

証拠、知りませんが、きっと、そうだと思います?その方が、10倍面白いです。

写真 石見銀山坑道 あんまり関係ないかな?

スーパーセレブ物語

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徳川幕府は、朝廷の行動を制約する法令を定めますが、さらに徹底するため、朝廷と徳川家との縁組みを企てます。

かねてより家康から申し入れがしてありましたが、種々の事情で延期されていました。やっと、元和五年(1620)、「江」の末子「和子(まさこ)」が御水尾天皇の中宮として入内します。

これには、「江」の二番目の夫「小吉秀勝」との間の子「完子(さだこ)」が、公家のトップ九条家へ16年前に嫁いでいて、彼女並びにその夫関白の仲介もあったものと思われます。

入内した「和子」が、朝廷内で様々な周囲からの嫌がらせを受けたことが、伝わっています。御水尾天皇自身も、当初、和子の元を訪れることは殆どなく、次の明正天皇になる姫が誕生したのは3年後です。

でも、その間、心細い「和子」の京都暮らしを、何かと支えてくれたのは、15歳年上の「完子」の存在だったそうです。

この「和子」こと「東福門院」は、その支援に応える意味でも「完子」につながる豊臣の、そして浅井のために、持てる力をフルに発揮し、昨日の記事「東福門院和子の母「江」思い」につながるのです。

それにしても、「江」は将軍御台所として武家における最高位、最初に産んだ娘「完子」は公家の最高位である関白夫人、「江」の末娘「和子」は、天皇の女御になる、母娘3人が、それぞれの最高峰を極めるという壮挙を成し遂げます。

浅井三姉妹が、豊臣、京極、徳川をつなぎ、またここに、皇室、公家、武家の頂点を極めるという前代未聞、世界でも類例のない(ホント?調べてませんが)、スーパーセレブぶりを発揮することになるのです。


写真 最近発見された和子の入内を描いた屏風絵(東福門院入内図屏風)徳川美術館HPより借用

東福門院和子の母「江」思い

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浅井長政の菩提寺「養源院」には、伏見城から秀吉の学問所という建物が移築されています。

へーーー、秀吉も、学問したんかいなあ・・・・・、と、いった感じですが、この部屋の棚に、小綺麗な高さ50センチくらいの円筒形をした「宝塔」が飾られています。

この中には、浅井家が尊崇してきた竹生島の弁財天の写しの小像が納まっているといいます。

小谷落城に際して、浅井長政は、妻お市に、この弁財天を託し、「生き延びよ、そして浅井の血を、誇りを伝えてくれ。」と、送り出したものと思われます。

その後、この小像はお市とともにあり、北ノ庄城で柴田勝家とともに自刃する際、長女茶々にゆだねました。

そして、大坂落城の際、「初」を通じてでしょうか「江」に伝わっていたのです。

「江」は「和子(まさこ)」が天皇家へ嫁す際に、この像を託します。

「和子」即ち、御水尾天皇の女御「東福門院和子」は、養源院にの像を納めるとともに、浅井一族を祀り、滅びた豊臣家の霊を慰め、1632年に亡くなった母の姉・お初の位牌までも置いたといいます。あの、菊の紋と葵の紋と桐の紋のついた位牌のことです。

それは母・お江に連なるすべての人々が、ここに集って仏の加護のもとに、あの世での安楽な日々を過ごせるように、娘として願ったものと思われ、淀殿が創設し、お江が再興した養源院に魂を吹き込んだのは東福門院和子だった書かれた人がいます。

養源院境内の最奥部に、周囲を圧する4米もの大きなお江の墓がありますが、これも母を思う東福門院和子の寄進になるものです。「お市」も、「江」も母親想いの娘に恵まれたことを養源院の歴史は物語っています。



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SirMurai

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浅井歴史民俗資料館を応援しています。歴史好き、建築好き、世界遺産好きです。
HP「江たち浅井三姉妹とお市物語」へもどうぞ。

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