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二十二日講の仲間

テーマ:乗如上人二十二日講
二十二日講「三郡規定」にある三郡内の「まわり仏さん」が廻られる町名を、古文書から書き写しておきます。

二十二日講仲間が、どの地域のどの町におられるのか、再確認する上での参考になるかとも思います。
あーー、あの○○さんの町も、まわり仏さんが廻られるのか。」と、話題にすることも・・・・。

長浜町  御堂前・伊部町・神前町・大手町

坂田郡山西部  南小足・八幡中山・宮司・加田・相撲庭・国友・東上坂・井ノ尻・堀部・南高田・相撲

坂田郡山東部  村居田・大野木・須川・朝日・上平寺・池ノ下・東富田大鹿・春照

上浅井郡  力丸・酢村・高畑・河毛・八島・南郷・寺師・二俣・三田・中野・三川・留目・佐野・尊勝寺・瓜生・酢村・髙山・宮部

下浅井郡  下八木・田中・早崎・新居・山本・曽根・八日市・難波・五ノ坪・速水・

伊香郡  柳野・井ノ口・千田・東阿閉・坂口・唐川・落川・高月・馬上・木之本・杉野中・西柳野・大音・西物部・雨森・高野

これだけ多くの町々に、「まわり仏さん」が、廻ってこられるのです。

こうした古くからのゆかしい遺徳の行事を営むことによって、仏祖、宗祖への報恩と祖先への感謝を新たにし、さらに信心を深める良い機会になればと願っています。

写真 昨朝の深霜 3景 孫、「これ何?」と、木の葉っぱを持ってきました。

高畑二十二日講鏡割御講協賛

もう、終わりたいんですが・・・

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もう一言だけ・・・・・。

この「御越年記」を見て、不思議なことがあります。

それは、「御越年法要」を営む町が、限定されてきているということです。

上浅井グループを例に挙げましょう。私たちの上浅井22組には、18集落、上浅井21組には、23集落あるようですが、この107年間に、「御越年法要」を勤めた集落は、10集落だけです。

そのうち、私たちの高畑は、3回も勤め、八島と大依が2回ずつ勤めているといった状況です。

おそらく、「御越年法要」を勤めた集落は、終了した段階で、また、何十年か後に御縁を結ばせてもらいたいと、相談の上申し込むというパターンで引き継がれてきたものと思われます。

昔は、申し込みをする集落が多く、なかなか順番がもらえなかったとも聞きますが、逆に縁がなかった集落は、そのままで経過してきているのでしょうか。

そして、現在では、なかなか希望する集落も無くなって来ているようです。高畑町は、平成48年に4回目の予約がされているそうですが、その前、3回分が決まっていないということも聞きます。事実だとしたら、由々しい状況といわねばなりません。

結局は、長浜(坂田)グループのように、長浜総会所で勤修するという形に移行して行くことになるのでしょうか。


高畑二十二日講鏡割御講協賛


「御越年記」107年から

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当町世話方に伝わる「御越年記」には、明治38年以来の記録が、残されています。おそらく、長浜総会所にあるものの写しと思われます。

明治は、45年で終わりますが、この表には明治96年までの御越年法要の割り当てが、下浅井→坂田(長浜)→山西(さんせい)→山東→上浅井→伊香の順に書き込まれ、勤修したら、大字名、御宿主名が書き込まれることになっています。

明治96年とは、昭和38年です。なんと、壮大な記録でしょうか。面白いと思います。(現在でいえば、平成82年までの年号を振ったことになります。)

ところで、この100年ほどの間に、それぞれの地域が、17.8回担当したわけですが、坂田(長浜)の場合、少々様子が違っているのです。

この文書の冒頭2年後の明治39年に、坂田が「御越年」を勤めたのですが、早速、その会場は「別院総会所」とあります。
その後の上浅井は尊勝寺の井上文五郎宅(M.42)、高畑の速水宗兵衛(T.4)宅のように、他地域も全て個人宅ですが、坂田(長浜)は、殆ど全てが個人宅ではないのです。

これは、一体、何なんでしょう?信仰心が・・・云々ではなく、やはり、今、私たち田舎が当面している状況によく似たことが、すでに100年前に起こっていたのでしょうか?

先日のIさんには、「長浜の町衆の方は、曳山まつりにかかりっきりで、仏さんごとには余裕が無かったんでしょうか?」と、申し上げておきましたが、どなたか正解を教えてください。(○○さん、はい、貴方に質問しているんですよ。)


 高畑二十二日講鏡割御講協賛

まわり仏さんのこれから・・・

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三姉妹からも、戦国からも、大河からも離れて、勝手なことを書きなぐってきて申し訳ありません。
最後に、この二十二日講の今後についてです。

湖北(だけではなく、北陸の真宗王国に共通しますが)の、田の字型の大きな家が、次第に近代的な小ぢんまりとした住宅に変わりつつあります。

結婚式場を使い、葬儀場を使う時代になって、個人の住宅をあけることを嫌うようになり、御宿を依頼することが難しくなって来ました。

本来、この鏡割行事には、御寿像を迎え法要を営む御講宿と組(そ)内の世話方が集まって総会を開く宿の2軒が必要でした。なかなか、この通りに行かず、一昨年の髙山町は2軒でしたが、昨年の草野町からは総会は町の会館を使うようになりました。

また、今後、総会を寺の御堂で、法要を町の会館で執行する予定の町もあります。

今回の総会でも、二十二日講を次世代に引き継ぐことを最大の願いとして、様々な改革の方向を探って行くことを話し合いました。10世帯程の、小さな集落でも、受けて行かなければならない現実に、どう対処するのか、大きな課題です。

毎年、この法要だけに使う経典を印刷をした「経本」を作成していましたが、3万5千円もかかり、今後、今年の高畑版を回収して使用して行くことが決められました。また、御宿で昼食をいただくことについても、酒が出なくてパック料理である以上、総会の会場でもよいわけで、今後、それぞれの集落で検討することになりました。

4日間の「鏡割」よりも、14日間という「御越年法要」だと、もっと大変で、10軒以上の御宿が必要になります。そんなことで、下浅井→坂田(長浜)→山西(さんせい)→山東→上浅井→伊香と、1年交替6年に一回ずつ廻ってきますが、なかなか、その通りに勤まっていないようです。

高畑の世話方に伝わる文書箱の中に、明治38年以来の「御越年記」が、残されて来ています。その中にある現実とは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


 高畑二十二日講鏡割御講協賛


信長秀吉と本願寺顕如

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現在、東本願寺派十九世門主乗如上人御越年法要が、長浜市八島町で十四日間にわたり、勤まっています。この行事に関わって、関連する歴史的事項をまとめます。

「浅井三代記」に「浅井大坂顕如上人を頼み一揆を起こすこと」とあることを紹介しました。この、我が浄土真宗の第十一世顕如は、宗教人というより、武将、大名と表現する方が適切だと思われます。

近江でもそうであったように、全国各地に一向一揆がわき起こりますが、本願寺集団はそれらの勢力を結集し、発言力を高め、大きな経済力・軍事力を擁し、大坂に石山本願寺を築きます。

また、各地に散らばる本願寺派の寺々を基盤として、大名に匹敵する権力を有するようになり、教団は最盛期を迎えます。信長との関係は友好的であった時期もありましたが、最終的には相容れるものではなく、信長と敵対することになります。

姉川合戦の起こった元亀元年(1570年)、本願寺と信長は交戦状態に入ります。この頃、将軍・義昭と信長も対立、義昭は武田氏、朝倉氏、浅井氏らと反信長包囲網を築き、本願寺顕如もその一角を担います。

しかし、元亀4年(1573年)4月には武田信玄の急死で包囲網は破れ、朝倉・浅井も信長によって滅ぼされます。本願寺も、天正8年(1580年)に信長が持ち出した和睦の条件を呑み、石山本願寺を去ります。

本能寺の変後、信長に代わった羽柴秀吉(豊臣秀吉)と和解し、天満本願寺に移り、本願寺は豊臣政権の強い影響下に置かれることになります。聚楽第落書の犯人を本願寺が匿ったという事件で、さらに、本願寺は弱体化されてしまいます。そんな中、天正19年(1591)に秀吉によって京都の七条堀川の地(現在の西本願寺の場所)に寺地を与えられ、京都に本願寺教団を再興します。その翌年、顕如は50歳で亡くなります。

ここに、純粋に宗教的であったか否かは別として、顕如を中心としたほとばしるような息吹を持った一大宗教勢力は、信長・秀吉の手によって、その牙をもがれたと言ってもいいのかもしれません。

写真 顕如上人

当稿、手違いで移動してしまいました。申し訳ありません。

 高畑二十二日講鏡割御講協賛


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SirMurai

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浅井歴史民俗資料館を応援しています。歴史好き、建築好き、世界遺産好きです。
HP「江たち浅井三姉妹とお市物語」へもどうぞ。

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